WHAT+HOW=Painting
「HOW=いかに描くか」ということは人から学べますが、「WHAT=何を描くか」ということを
人から学ぶことが出来るでしょうか。
HOW は技術でありわかりやすいですが、WHATは好みであり人それぞれであるような感じがするかも知れません。
ここで、ひとつのことがらを無理やり二つに分けてWHATとHOWにしてしまったのであって、実はWHATとHOWは結びついているものなのだと言ったら皆さんは驚かれるでしょうか
「何を、いかに描くか=WHAT+HOW」ということが一体のものだと想像してみて下さい。
さて、WHATは「何を描くか」ということと同様に「何が描かれてきたか」ということをも含んでいます。
でも実際は美術史において何か特別なものを描いてきたのかと問われれば、むしろ身近にあるようなものが描かれてきたと
言わざるを得ません。
人物にせよ静物にせよ風景にせよ、みなその辺にあるものであり言ってみれば陳腐なものに過ぎないのですが、絵に描かれたものとなると人はたいそう感心します。
何故でしょうか?
ここで「描かれた対象」は目に見えますが、「描き表し方」は目に見えるものではないということに注意して下さい。
それでは、私達には何が見えて、私達の心は何に感心させられているのでしょうか。
描かれた対象を見ながら、描き表し方に感心するとはどういうことなのでしょうか。
それを明らかにするためには「見えるもの」と「見て感じられるもの」との違いを理解する必要があるのです。
私達にとっては「目に見えるもの」と「見て感じられるもの」との区別をつけることが難しいのです。
例えば、風景を目の前にして、樹木のように対象そのものを見ることはできても、距離そのものを見ることはできません。
距離は見ることで感じられるものですから「距離感」と言い表すのです。立体感や質感も同様です。
遠近法は遠くや近くが見えるのではなく、遠くにあるように、近くにあるように、そのように感じられるように
描く方法をいうのです。
このようにWHATは見える対象というよりは見ることで感じられるものなのであり、そのように見えるように描くために
HOWが作用しているのです。
WHAT+HOWが実はひとつのことなのだと考えれば、つまり「描かれてきたもの」とは直接目に見えるものではなく「見ることによって感じられるもの」なのだということが明らかになると思います。
私達は目に見えないものに感心させられているのです。
分けるのではなく混ぜる 大人と子供が共存する部屋
土日のクラスでは大人と子供(少人数)がいっしょに学んでいます。
従来の美術教育理論では子供の自由な発想を妨げるといった理由から大人の技術を教えることに対しては消極的でしたが、
保護者からではなく、子供当人からの技術習得の要望があれば、自由意志として尊重しています。
大人の間に子供が混ざっていると、笑ってしまうようなことや、思わぬことが起きることがあります。
大人は時にそれをうるさく感じることもあるようですが、それよりもおもしろさのほうが勝っていると思います。
これは人間社会の本来の姿なのではなかっただろうかと、ハッとさせられることも多々あります。
気が付いてみると絵を描くことを通して、失われて久しい大人と子供の自然な交流の場になっていました。