先月末、精神科ではあるが医師である弟からの言葉でわたくしと息子はほぼ覚悟をしつつ、兵庫県の姉のもとを訪れた。
そんなわたくし達に姉は、眼差しと言葉にならないことばでたしかに応えてくれたと思う。そう思えた。そして3日間毎日会い、姉は逝った。
尊厳死協会に属していた本人の希みを思い、弟と共に担当医師と良く話し合い、延命のための手当は一切受けぬ終焉であった。入居施設でのほんとうに柔らかく暖かい介護をうけ、まさに消えゆくように逝った。姉は逝ってしまった。
コロナ禍の環境激変に対応し得ず、認知症が急激に進行してしまった姉。その姉には秘して済ませたが、わたくしも2020年6月初旬に舌癌の手術を受けた。無事に乗り切ったけれども術後の転移、キイトルーダ治療による快癒。しかし急激な体力低下。そして老人施設への転居等、激動・激変の4年間であった。
わたくしにとっても辛かったこの期間、やはり姉は私の生きる目的であり、支え・そして希望だったのだ。
旧満州の大連で生まれ育ったわたくし達姉弟である。敗戦から引き揚げまでの混乱と恐れの中で、大連での売り食い生活1年半。その後、姉弟4人ともに初めて土を踏んだ日本での引揚者としての生活も苦しかった。
父はそんな中にあってもプライドを捨てることが出来ない人であった。先祖伝来の銘刀を、戦時中の日本、敗戦後のロシア・中国・いずれの軍の武器供出命令にも従わず、遂には家の地下に埋めてしまったことは以前記した通りである。
父に入れ替わり、よく寝込んでいた母が戦後強靱な人となった。13才だったわたくしにもその変化ははっきりと目に映った。その母の片腕となったのがわたくしと2才しか違わぬ姉であった。
敗戦後に大連のデパートで母と姉が商ったショーケース1台。その中は玉石混合であったらしい。わが家の衣類・装飾品と共に父の友人から依頼された大小多くのパールのコレクション。それは相当な逸品で、中国人の商人やロシア士官のマダム達がそれを目当てに来たものだったと数10年のちに姉から聞いた。
ちなみに、引き揚げ時に「お嬢さんたちのお嫁入り時に」とお礼と記念にいただいた立派な数十個のパール。それは弟たちの帽子に母が埋め込んで隠し、乗船前の検査や略奪を無事に逃れ得た。そして帰国後直ちに生活費となったことを見聞し記憶している。
父の帽子をカットして造花を作り、刺繍で彩り安全ピンをつけて売ったらロシアの女士官達からの人気を得た、との話も姉から数十年後に聞いたものだった。母から聞いた話によると、お洒落だった父は帽子も英国のお気に入りブランドなどで揃えていたらしい。今も残る帽子の一つを、捨てかねてわたくしは保存している。
1947年3月、両親と姉弟4人の日本での引揚者生活が始まって以来数年間、日本の最も苦しい時期をわたくし達家族も無事乗り越えた。勉強嫌いのわたくしを除き3人が大学に進学できたのは母と姉の懸命な努力があってこそであった。
9年前に逝った長弟Yも、姉と似て家族思いの責任感を持つ人物だったことに思い至った。青少年の若き日、おそらくは姉の最も良き理解者だったであろうことにやっと気付いたように思う。礼も述べぬまま逝かせたことが今更に悔やまれる。
子供時代から家の中で一番の困り者はわたくしだった。その自覚はあったが、いまさらに悔いとかなしみが寄せてくる。亡き人々に対して・・・・・・
どこの家庭にも大切な物語、厳しい問題、哀しい思い出、惨めな追想、温かな回想等々があり、それぞれが個々に持っていると思う。歳のせいでしょう、わたくしの姉を思う懐古は限りなく深まり止まりを失いそうになる。
3年半ほど前に姉が入居していた施設の介護室へ移って以来、同じ施設に入居していた弟のお陰で、わたくしは弟が支えるスマホを通して姉とつながることができた(会話にはならないが明らかにわたくしを認める反応を得ていた)。起伏はあったけれど今年の2月初旬までそれに一喜一憂の年月を過ごした。
昨年11月には息子とともに会いにもゆき、その折も微かな笑みとともに姉が今持つ「言葉」での反応をもらっていた。確かに、、、、。
先月27日の夕べに姉は逝き、3月3日に送った。花を愛した姉に白百合を主体とした清楚な花いっぱいの家族葬を、施設内の部屋で催した。お香典ほか一切のご好意は辞退させていただいたけれどお世話になった施設からのお花は喜んで頂戴した。
会場も、送り出す棺も姉の好みに合い悦びそうな花々で溢れていた。今も花々の中の姉が瞼に止まっている。
子供に恵まれなかった姉に幼少時から可愛がられた息子の相談を受け、弟とわたくしが助言しての「お葬式」をきっと姉は気に入ってくれたことでしょう。そう思っている。
とにかく花に満たされた部屋で、貴重なともびとの方々ともお別れをし、お見送りをいただき姉は旅立ち逝った。
お世話になった施設の支配人初め多くの職員の方々もお別れに来て下さった。
皆様のお陰で姉の最期は安らかでした。姉を心安らかに委ねることができたわたくし達家族も日々、どれほどに感謝していたことでしょう。
かなしみと共に、もう心身ともに苦しまぬであろう姉を思い安らぎをも見つけている。少しだけ恩返しが出来たように思える。喪失感とともに、大きな役目を終えた感じもある。けれども言い知れぬ淋しさ、追憶が胸そこに漂う。
ありがとう。ありがとうございました、お姉さん。長い間本当にありがとう。
あとは心臓の不調を抱くターちゃん(弟)を出来るだけ支えますからね。
「一番ダメな喜代ちゃんが一番守って貰ったから出来るだけしっかりしますよ。お姉さん」
追記
姉の棺がお世話になった施設を発った折、広い裏庭の長い通路のサイドに施設職員の方々が立ち見送ってくださっているのに気付き感謝していた。みなさんご多忙なのにと、、、、。
ところが後日息子に知らされた。長い通路が始まる場所にT支配人が立っておられたとのこと。長年の氏の見守りに感謝を捧げていたのはむろんであったが、そこまで支配人の姿勢を全うされるお姿に、改めて深い感謝感動を覚えました。
「長いお見守りありがとうございました」姉に代わり深くお礼申し上げます。 |