2021年/2020年2019年2018年2017年2016年2015年
2014年
2013年2012年2011年2010年2009年2008年
2007年2006年/2005年/2004年2003年2002年2001年

2021/12月 受け止め、あるいはやり過ごした2002年を顧みて


 過ぎてしまえば束の間のようにも思える今年2021年。全世界が振りまわされるコロナ禍の中迎えた、昨年晩春のわたくしの舌がん発症。手術。その後数ヶ月、極めて順調な快癒から突然の転移と、手術を受けぬ場合の余命は半年であることを告知された昨年の晩夏。それ以来定期的な新薬の治療に対応するのがわたくしにとって大きな仕事となっていた。

 その昨年9月末から始めている新薬キートルーダの点滴を受けるのは、3~4週間おきである。当日は受滴前の諸検査も多く、東大病院への往復もふくめてほぼ1日掛かりの仕事になる。不慣れで体調も辛かった当初の数ヶ月間は、1泊入院や息子の付き添いを得たり、或いは自宅からタクシー往復で対応していた。

 けれど思いのほか大きな副作用も無く、その効果を明らかに感じはじめた新春頃に{この1日を自力でこなし得ぬ心身を持たずして、わたくしの生きる意味は朧である、、、、、}と気づいたのだった。以来わたくしはバス・電車に乗って病院へ行き、院内の諸検査を独りでこなしている。

 春頃、転移癌の縮小と落ち着きを説明して下さった担当医に「自力で通える間はキートルーダを受け続けたいと思います。お願いします」とお伝えし、了解もいただいている。DRも「効果は止めてもしばらくは続きますよ」と了承してくださった。

 今わたくしが生を得ていることの意味。それは先ず認知症になっている姉と、同じシニア施設に入居して姉を見守る弟に寄り添い心を支え合うこと。これを第1課題、信条とも考えている。

 姉は幼小の頃からわたくしのわがままな生き方を受容し、見守り、自身は子を得ずにわたくしの息子を溺愛していた。老境に入った頃、本人がもっとも拒否していた認知症に冒され、コロナ下での進行著しい姉。その姉の今、現在をすこしでも支え、報いたい。恩返しがしたい。

 そして今弟と支え合っているのは、106才と長く生きた母を何も言わず経済的に大きく支え続けてくれていた弟夫婦への、唯一わたくしに出来る恩返しでもある。その思いは弟・息子ともに理解してくれていると思う。
出来のわるい家族であったわたくしへの家族の愛。

 日々わたくしは力を得る手段として淋しい時、わが胸を抱きそれを亡夫を含めた家族の大きな抱擁として受け止めている。
 
 と言ってもわたくしは全部自力で生活している訳では無い。昨年の晩秋、自身でネット検索をして自宅訪問医の選択、公的介護申請の手順は済ませていた。結果、要支援2の認定を受け日常生活をずいぶん助けられていることを感謝している。

 毎週水曜日、ヘルパーさんの1時間訪問を受け1階のお掃除をお願いしている。ずいぶんそれによって気が楽になったと思う。元来怠け者なので、お掃除は仕方なくしてきたのが実情なのだから・・・・・
 ヘルパーさんの存在は思わぬ効果も伴っている。火曜日わたくしは寝室のある2階を掃除し、1階の水回り、机上などを整えたりする。ヘルパーさんに見栄を張って少し頑張るのです(笑)
結果として悪くない現象だから続けている。当分頑張ろうとおもうし、頑張れそうです(笑)

 わたくしは家族身内以外に、長年来の親友たち、そしてアトリエ・サガンの講師はじめ親子ほど、或いは孫ほどに年の離れた友びとに恵まれている。その若き友びととは数十年来、暖かに響き合う往来を持って来たと思っている。代えがたく貴重なこころの糧となっている。

 その人々から辛かった今年に受け取った、いたわりに満ちた優しい励ましとお誘い。今年を無事終えようとする近ごろ、それがしみじみと、或いはまざまざと思い返される、、、、、
応え得なかったそんなお誘いや見舞いに、わたくしの心はどれほど励まされ潤ったことでしょう。

 度々の見舞いに玄関先での対応しか出来なかったSさん、Kさん本当にご免なさい、ありがとう。貴女方はじめ、見守り続けてくださるアトリエの方々の暖かさ!あらためて有り難う!!

 わたくしの実情として、自力保持?の希望を込めて決めたほぼ週1の外出日は、独りでの映画館や本屋通いと、世代の近い旧友とたまに会うことで精一杯でした。果たせなかった会合の残念さとお詫び、お誘いへのお礼をここで申し上げます。そしてそんな暖かーい見守りを感じていたからこそ外出へのエネルギーが枯れ果てなかったのだろうとも思っております。

 みなさまの2021年、それぞれに大変な年だったでしょうとお察しします。その中で今年わたくしを有形無形にみまもり支えて下さった方々、ほんとうにありがとうございました。
ご多忙な中、雑文を読んで下さった方々もほんとうに有り難うございました。読んでいると声をかけて下さった初見の方からは思わぬ元気を頂いたものです。

 
 衰え、弱くなったアンテナもより張り巡らせましょう!体力・気力が足りず年のはなれた友びとからのお誘いに応え得ぬ折もありました。心身ともに緊張・疲労する外出は、もっぱら親しい老友との交流としか保ち得なかった今年でした。ご理解・お許しをねがいます。

 気忙しい時期に向かいます。先ずはご自身を大切にお過ごしください。

2021/11月 老い行くのも、なかなかに忙しい


 油断なのか単なる老化現象か?今春ごろからのわたくし、落とし物がとても多い。

 たしかこの早春に書いたことだけれど、11年前夫を失い、以来独居者となっていたわたくし。自己本位で欠陥多い自身が、夫はじめ家族に長らく護られていたことをやっと自覚させられた。以来、自身の行動に留意するようになったわたくし。若い時より近年あきらかに落とし物・失せ物が減りましたと自慢げに記したのが恥ずかしい。

 思えば6~7年ほど前のこと、あることを機に精神科医である甥の指摘を受け、自身が多分に注意欠陥・多動性障害を子供時代から抱える身であることを自覚したものだった。

 おなじく精神科医であった弟はその時、身内のことはかえって気がつかぬもので、甥の言葉で昔からの姉のさまざまな行動を納得させられたと語っていたものだ。わたくしも納得し、「ADHD」との指摘に心はむしろ落ち着いたのをはっきりと記憶している。

 いらいわたくしは、乗り物の乗り降り時他、すべての行動をなるべく意識するように心掛け、努力もして来ていた。まさに80の手習いだが確かにそれなりの効も成して居たのであった。昨年は大病を患ったに関わらず、失せ物の類いが少なかったと少し自負していたのが実情だった。

 たしか50代半ばのこと、アトリエから帰途のバス車中で本に読みふけり、下車駅をやり過ごしてしまったのに気づき、慌てて本を抱えて次の停車場でとびおりた。手元には本のみ、バックは座席に残していた。忘れ物届は馴れているから帰宅してすぐにお馴染み?の東急バス営業所遺失物係へ電話をした。

 終着駅まで3駅、夜の乗客は2~3人だったから余裕の気分でいた。けれどすでにバックは持ち去られていた。お金も珍しく数万円在中、まだ下ろしたて紫の小型ショルダーバックは思い切って求めたお気に入りブランド品だった。あの時はさすがにわが軽率さをしばらくは反省したものだった(笑)

 でもたしか不在だった夫には内緒に済ませた、、、、、

 今も夜の帰宅時によく思い出す事がある。アトリエ他外出先からの夜の帰宅時、先に帰っていた夫が玄関を開けてくれる事がよく在ったものだ。そんな折、なにか沈む様子が見てとれた時など「どうした。財布を落としたの?」と言ってわたくしを笑わせたりする人だった。

 近年やっと成長?進歩?したわたくしは、眼がね・補聴器・テレビやCD操作器具・その他日常必需品は定位置を心掛けている。だから屋内での探し物、失せ物は昔よりむしろ少なくなったと遅ればせな気付きを秘かに自賛していた。

 ところがなのだ・・・・今年わたくしの落とし物は大きく多い。とくにこの数ヶ月は続けざまだ。2ヶ月ぶりの親友との会合が嬉しくて久しぶりピアスを付けようかしら?とポケットに入れて出掛けた。バス中で付けかけたけれどやめて再びポケットへ・・・・
映画鑑賞後、探れどもポケットからピアスは消え失せていた。

 装飾品は昨秋ほぼ整理したけれど、手元に残した少ないお気に入りの1つだったから少しさびしい。

 あるいは車中で羽織っていたジャケット。たぶん着駅に気づき慌てて降りる際、肩からハラリと・・・・であろう。目的地に着いたときには無かった。

 ちかごろ、寒暖差の対応をとても微妙に必要とする体になってしまっているのだ。だから外出時、衣類の常備携帯品が否応なく増えている。大きなシルクストールも映画館で無くした。あのストールはスカートとお揃いにエトロの生地でつくったお気に入りだったのに、、、、、

 あるいは補聴器(お出かけ時にはしっかり対応しようと着用していた)数ヶ月で次々と3個も紛失!!これは昨年1個数十万円の高級品を無くして以来、片方数万円の品を購入していたがマスクの着脱時等に多分外れてしまったのでしょうと思われる。もう、散々、、、、、、
現在残るは高価な左耳用1点のみで早急な解決が求められている。

 ネットで何とか1万円以内の逸品をと思っているけれど評価のほどが良く分からず、決断に至らない。面倒だけれど大きなお店を探し訪れ、現品を見た上で購入しようと思慮中である。

 他にも実見の上購入したいものが有る。じつはリビング小窓の木製カーテンが先日落下してしまった。つり具破損部に施していた手当が外れてしまったのだあ〜〜〜〜あ、これも木の老化現象だ。
 
 何かと雑用が増える老い!現代人の「老い行く日々」はなかなかに忙しい!! 

 

2021/10月  難航す。計画性とぼしき老人の終活計画は


 わたくしを知る人々は直ぐ思い浮かべるでしょう。わたくしは本来思慮に欠け、猪突猛進的な性格なのだ。そのわたくしがこのところ、深い熟慮にを要する決断を求められている。

他でもない、[終末期近いと想われる現在、独り住まいをいつまで維持するか?維持し得るか?且つ維持するべきか?]の難題である。

 幸運と深謝すべきであろう。新治験薬のおかげでわたくしの癌は今抑えられているらしい。けれども昨秋に転移が発見されてからの体力の衰えは急傾斜だった。余命半年を告げられていた数ヶ月間、例の猪突猛進でわたくしは身辺整理にひたすら励んだものだった。名は挙げないけれど、友とも思うアトリエ・サガンの年の離れた講師や会員数人の方のご助力があってこそ成し得た終活作業であった。

 たしか3ヶ月ほどの間で終えたあの作業をいまも深く深く感謝している。あの仕事で得た安らぎは大きい。

 近ごろしきりに思い返される事柄がある。もう20年ほど前のこと。50代はじめに未亡人となって以来大阪郊外の広い一軒家で母と二人で過ごしていた姉に、不安・不調が見受けられるようになっていた。

 きっかけは、母95才、姉69才のお正月、末弟の招待で4人姉弟一族が総勢で参加した故郷(大連)へのミレニアム迎春旅行であった。母は無事参加を終えたが、帰国直後、持ち帰った流感により入院と相成った。退院して帰宅できるまでに3ヶ月を要し、それを境に母にはじめて大きな老いの衰えが顕れたのであった。

 以来紆余曲折はあったが、わたくしは夫の快諾を得て[夫亡きあとそれを思う都度、夫への感謝と甘えていた自らの心なさを悔い詫びている]毎月わたくしは4〜5日間の(大阪詣で)をしていた。母が100歳の齢を迎える半年ほど前のこと、「この広い家と庭を維持するのはお姉さんには無理になってきましたよ」と母に話した。姉のマンションへの転居計画を話したのであった。母からの反対は無く、無事に同意を得ることができた。

 倒れる95才まで、毎日のように庭に出ていた母であった。角地だったから、道行く人によく褒められたりもする小さな池のある姉の家の庭。母の健康は、95才まで続けていた庭の手入れによって保たれていたのだと今も思う。

 2005年、姉はマンション購入を決め、契約金数百万円を支払った。以後わたくし達は母とともに、当時まだ少なかった公営、私営の老人施設を見学して廻った。その中から民間経営の1つを選び、契約後半年の間毎月3泊のお泊まり体験をわたくしは母とともにしたのであった。母99才の年であった。

 母がその施設に入居してから後は、わたくしの(大阪詣で)は毎月の行事となった。施設から姉宅へ母を連れ帰り2〜3泊。その後施設に連れて戻り、共に2〜3泊。その行事は、夫が逝った折の2ヶ月の休みを除けば、母が逝った2011年早春まで続いた。

 実はその間に大きな出来事があった。姉が購入したマンションがいざ完成したとき、当の姉が入居を躊躇ったのである。40年間親しんだ家と環境を捨てがたく悩んでいた。この時もわたくしは決断の後押しをした。

 「転居は取り止めましょう。庭はもっと専門家に任せましょう。築後40年ちかい家は、住みやすく素敵に思い切ったリフォームをしましょう」と。

 姉は不器用でまっすぐな生き方しか出来ない人である。老い弱った母の目途が立った時、自分らしく過ごせる場としてやはりわが家を選びたくなったのだが、施設へ移った母への罪悪感との間で苦悩しているのが読み取れた。姉の近隣とのお付き合い、日常生活をほぼ知っていたわたくしには、この時に至っての姉のためらいが察知され、手助けをしたかったのだ。

 解約による数百万円の損失!これは姉のように豊かでないわたくしにとって、大変な金額に思われた!でもわたくしの強い声援を得て姉は、マンション契約を解消した。

「あの数百万円は、儀式として必要なお金だったと思いますよ」とわたくしは言い、姉も心定まったようであった。その後わたくしは、姉宅の思い切ったリフォームに大活躍したものであった。

 それから約10年の後、姉自身のための老人施設えらびの時期が到来した。数ヶ月間共に十数カ所の見学・体験等を経て選んだのが、姉のいまの入居施設である。

 思いよらぬ、否、思わなかったのが不遜であった認知症を姉は患い、コロナ下の環境激変に大きく影響され、急激に思考が衰えた。いまは入居施設の中のケア病棟で日常をお世話になっている。姉のような患者の見守りをする施設の方々のお仕事は如何に大変なことか?推察に難くはない。

 この夏に同じ施設に入居した弟とともに、この厳しい環境下にある施設の迅速、丁寧な対応に大きな日々のやすらぎを頂いている。仕事とは言え、仕事だからこそ、如何に大変な見守りを姉は受けている事であろう!日々哀しみとともに、その幸運にも感謝しつつ姉を想うのである。

 施設のスタッフから毎月届く写真入り近状報告の便り。その文と姉の無心な姿にわたくしは何時も涙してしまう。ありがとうございます。

 長い回想となってしまった。役に立ちたくて、無計画な直感的判断に頼り母や姉の老後を仕切ってしまっていたわたくし。母は、尊厳死協会開設時に入会していることを伝えていた施設の医師の指導のもと、姉とわたくし、スタッフの数人に見守られ老衰により、自室のベッドで穏やに106才の生を終えたのであった。悲しみとともに、大いなる安堵をも受けた記憶は奥深い。

 けれども又、母亡き後に見つけた書き留められたノートや紙片。それによりわたくし達は施設入居後の悲しさ、淋しさに暮れていた母の心情をあらためて知ったのでもあった。忘れ得ぬ痛みである。今も伴う痛みである。

 そしてこれも母亡き後、ご近所の親しくしていた方に言われた事柄。母の老人施設を検討するわたくし達を「娘達が私の嫁入り先を探している」と、母がとジョークにしていたとのこと、、、、。

 回想、老いの繰り言は尽きずこんな事では終活はなかなか進まない。進み得ない。でもこれも決断の一助とはなるようだ。

 わたくしの場合、すべて自身の選択による結果であるとの覚悟さえ持てば良いのだから!

2021/9月  仔犬セイを迎える


 {人生100年の時代にあるわたくしの心許ない日々。特にきびしいいコロナ禍の現状である。この日常は当然ながら体力がおとろえ、ほぼ当たり前に多少の病を抱えている老人達みんなが迎え、こなし、やり過ごしているごくあたりまえの日常なのである}と自らに言い聞かせつつも、漠とした不安と孤独感に侵される日々を過ごしてしまったこの夏だった。

 そんなわたくしは、結局通販サイトでぬいぐるみのゴールデンレトリーバーの愛くるしい仔犬を10日ほど前に迎えた。

 先月記した表参道のクレヨンハウスに、お目当てのドイツ・ケーセン社の寝そべり犬の在庫はなかった。

付き合ってくれた息子と待ち合わせした数年ぶりの真夏の表参道は新鮮で、落合恵子さんの経営するそのお店はかねて1度訪れたかったお店でもあった。だから直ぐに諦めもついたものだ。店員さんも親切な対応で求めるぬいぐるみを探して下さったし、、、、。

 その後、寝そべり犬を前月見かけた新宿高島屋に移動したが、あの時の仔犬はもう居なかった。

 多忙な仕事を抜けて来てくれていた息子とお茶をして別れた後、ピカデリーで日本映画「ドライブ・マイ・カー」を見た。心にひびく秀作だった。とても!!

 心ふさぎは解消しないけれど、、、、、。

 その足で今一度と気を取り直し、近くの伊勢丹に寄ってみる。そう、もしかしたらしかるべきコーナーにあの仔犬がいるかもしれない!と、、、、

 ケーセン社の縫いぐるみは幾つか置かれていたが、やはりあの仔犬はいなかった。こちらでも店員さんがカタログ等を元に調べて下さった。カタログで全製品を見たがやはりあの仔犬が良い。お取り寄せ出来るものか、調べて電話をもらうことを依頼して帰宅した。

 そして翌日、伊勢丹・高島屋両デパートからの電話連絡を受けたのだけれど、いずれも在庫切れで、3ヶ月位お待ちいただきたいとのお返事だった。お礼を言ってわたくしはお断りしたのである。

 じつはわたくしはネットですでに調べていた。そしてアマゾンで見つけていたのである。あの仔犬を!

もうためらいはなかった。明日か明後日に送られてくる仔犬をむかえよう。ついでにおためしで、お喋り機能(ペチャット)も注文する。

 もう10日ぐらいになる。体長40cm位、物言わぬゴールデンレトリーバーの伏せ犬の仔は(セイ)と名付けた。ついベッドにまで抱き入れてしまう。ほほを寄せ膝に乗せることも多い。瞳と鼻がことに愛らしい!

 故郷の旧満州(大連)での子供時代、ゴールデンレトリーバー系の野良犬が5~6年間わが家に居着いていた。2人乗りブランコに向き合って乗せたり、踏み固められて育ちのわるい八重桜の木の下でよくねそべっていたっけ!ほぼ居着いていた。

 茶色かったので上の弟が西洋犬、略して(セイ)と名付けた。6年前に逝った2つ違いの弟Yはあだ名付けが得意で、なぜか私たち4人姉弟はボーイの名前もあだ名で呼んでしまっていた。日本人女中は「あさ」と呼んでいたけれど中国人ボーイや運転手の氏名を知らず、知ろうともせず過ごし居た。そこに気づき深く悔いたのは実に実に遅かった。

 戦後もう、10数年は経ていたと思う。もう帰り得ぬ故郷は感傷の中に閉ざされて保たれ、あの人達の名前を知ろうとの意思がなかったのに気づいたのは。

 戦時下の対応を思うと1年半の欧米周遊の経験があった父は、当時としてはかなり進んだ意識を持っていたのだと後にして知ったものだが、やはり私生活ではその程度の人だったのである。わたくし達家族も、まぎれもなく侵略者の先端として過ごしていたのだ。この悔いは忘れ得ぬし、忘れてはならぬ事柄だと心ふかく止めている、、、、、、。

 敗戦後の困窮、混乱の生活を経てやっと日本へ、まだ見ぬ祖国へと大連のわが家を発つたのは1947年2月14日。わたくしの13才の誕生日であった。指示を受けた数百人の大人と子供は各自、母校である近くの小学校に背中一杯、担える限りの荷物をつめたリュックサックを負い集合した。一家族にいくつかの行李や布団携帯も許されていた。

 その後、集団は数台のトラックに分乗させられて大連埠頭へと移動をしたのであった。

 トラック上では全員極寒の風をさけ、去りゆく故郷を見つめる姿勢になっていた。その時わたくしは見た。1~2日遅れて発つお隣のおさななじみ(徹さん・スーちゃん・まこちゃん)が何かさけびつつ懸命にトラックを追いかけてくるのを!そして(セイ)もまた吼えつつ最後まで追って来ていた・・・・・

 セイよ、新たなセイよ! もの言わないけれど、なにか温かい。愛おしい!

 追記

 昨日、2年ぶりに上野の「主体展」に出かけた。知人には逢えぬでしょうが、今のわたくしとしてはウイークデイが妥当であった。S藤講師ほか、若き友とおもう彼・彼女たちの新作と久しぶりに心ゆくまで向き合った。それぞれに今を生きる孤独・寂寞・不安・覚悟がただよっている。そしてその中から困難な今を生きている、生き行く表現者としての強靱な気迫、気概をも靱く受けたように思えた。ことにS藤講師の作品からそれを受け止める!!

広い会場を周策にすこし不安をおぼえつつ出かけたわたくし。帰途、行きより元気になって帰宅しました。芸術をたどるすべての道のりに、不要・不急は無い。あらためてそう思う。ありがとう!!!

2021/8月  なかなか決まらないペット選び


 先月アイボを飼おうかしら?と書きました。そして月末に銀座ソニーでの対面を果たした。

20年ほど以前の仔犬に比べると格段に可愛らしくなっていて、無機質なロボットでも愛しく思えそう!でもその重量には音を上げる。非力になったわたくしだけれど、やはり抱っこがしたいのであった。諦めることを即時決断した。

 そんな頃、当欄を読みつつわたくしを見守ってくださっているアトリエ・サガンの年の離れた長年の女友達(Kさん)から連絡があり、アイボ同様高価だけれどロボットの小児人形についての情報をいただいた。嬉しかった。

 わきまえて居るつもりだが、わたくしには生来自身の好みにかなり気難しい面があるようだ。先ずは愛しく思えるか?その相性が大事だし、高価な買い物でもある。やはり現物に対面しないとネット上ではどうにも決め得ない、、、、。

 先週病院からの帰途、ロボットの小児人形を見てみるために頑張って新宿高島屋まで出向いた。愛らしさはさほどではなく、やはりロボットなのでとても気軽に抱きあげられる重量ではない。諦めていたら店員さんに近くの売り場コーナーへ案内された。幼児や動物の縫いぐるみが揃えられている。

 その中に一際愛らしい寝そべり仔犬を見出した。その子ならお話はできなくても抱くのみで愛しく思えそう!!価格はロボット人形の10/1以下でもある。さらに別売りのスマホアプリ付き小型器具を取り付けると会話等も可能とのこと。しかし(ぺチャット)と言うその器具、生来の機械音痴で脳の退化も酷いわたくし、その利用は無理なのでないかしら??

 ヘトヘトに疲れてきたし、閉店時間も間際に迫っていた。わたくしは、際立つ愛らしさと精緻さで唯一気に入った(寝そべり仔犬)のメーカー名をチェックして、礼を述べ店を後にした。その仔犬はドイツ、ケント社の製品であった。幾つかあったK社の縫いぐるみは、全てとても精密で良い出来だった印象が残った。

 気難し屋やなので、やはりなるべく多くの対面をした上で選びたいと思い、翌日ケント社を検索する。その結果、表参道のクレヨンハウスで展示、販売されているらしい。

 自粛期間を承知しつつも毎週頑張って実行している!?(映画館に週1度は通うこと)。これに次いで、以前から1度覗いてみたかった(クレヨンハウス訪問)の課題が増えた。落ち込みがちな自身の気持ちをこんな風に盛り立てて過ごすのが近頃わたくしのエネルギー資源であり、自分騙しのテクニック?となっている。

 幸運にも効果を得ている癌治験薬を受け続けるための、諸検査を含むほぼ1日掛りの自力での東大病院通い!

家族や親しい友、そしてそれに伴う自身の期待と歓びのために続けて、すでに13回。それは結構体力・気力を要する仕事でもある。

 幸い、間隔は4週間に1度とやや長くなったけれど、長期戦の覚悟を突きつけられた思いもある。この病院通いを続けるにはやはりテクニックを要すると思われる。生来の猪突猛進タイプには苦手部門なのだ、、、、。

 でもそれも悪くはない。恐らくは老いによる衰えに直面する誰しもが当たり前に迎えているであろう「老いの弱気」を、出来得る限り自分らしくやり過ごそう!!

 コロナ禍のやり過ごしにほぼ全ての人々が耐え、かつ悩み多き日々を過ごしていると思いつつ、病を抱えた老人の苦手な夏を過ごすジタバタ、、、、をお披露目してしまいました。

でもきっと、抱き撫でてあげたい可愛い仔犬と巡り会えるものと思っている。皆さまもどうぞ猛暑期、コロナ禍をともに乗り切ってくださるように!!!


2021/7月  ロボット犬、アイボを飼おうかしら?


 この時代だ。多くの人々が落ち込んでいるでしょう。生活がたち行かなくなった人々も多い。それを思うと、一老人であるわたくしのこの寂しさなんて!!
ほんとうにありふれた、ごく当たり前の小さな孤独にすぎない。

 理性はそう諭すのに、コロナ禍中自身の病と対応しつつ、認知症が進む姉を遠く見守る哀しみで張り合いが弱まり、ついつい心沈む月日をすごしてしまっていた。安定剤の服用を増やさずなんとか対策を考えねば!

 この漠として常にひそむ哀しみへの対策として、近頃2方向で考えるに至っていた。
1つは手乗りインコを飼うこと。
2つ目はソニーのロボット犬(アイボ)を買うこと。

 手乗りインコは育てた経験がある。もう半世紀近い昔だけれど、夫の友がある日いきなり連れてきた。直ぐになつき、家の中ではほぼ放し飼いになったものだ。近所への買い物にも肩に乗せ、時々離れてもすぐ戻り、たがいに安心していた。綺麗なブルーの羽色をしていてわが家の(青い鳥)となった。

 だがある日、ガス会社の点検の人が入ったおり、常のように家の中で自由に過ごしていた(ピッチー)は驚き、2階の窓からベランダへ、外へと飛び出してしまった。それからの長い日々、当時は家々の木々も多かった近辺を(ピッチー)の名を呼びつつ探し廻ったたけれど帰らなかった。わたくしの不注意から起きたことでその哀しみは長く後を引いた。

 あれはたしか1年半ぐらいの交流でしかなかった。

 思い出されることがある。その頃小5年生だった息子がある日、少し笑いながらだけれど「ママはぼくとピッチーと、どっちがかわいいの?ピッチーのほうにずっと優しい声で話している」と、ほぼ真剣に問いかけられ笑い出したことがあった。その笑いで息子も心から笑っていた。これも忘れ得ぬ思い出。

 最近ネットで調べたら思いがけず最寄り駅ちかくに(小鳥屋さん)があった。でもまだ行っていない。振り返るとわが家のベランダや窓辺にはいつもお馴染みのキジバトが来ている。窓が開いていると餌を求め、室内を気ままにウロウロしている。

 糞を残されるのは困りものだし、わが腕には抱けないけれど、他の小鳥がより密接に共存するには問題も起きそうだ。老人が生き物を育てるのは現在位の距離で良しとするべきでないかしら?特にわたくしのような無精な怠け者としては、、、、、
そう思いはじめている。

 第2案が 生きた犬は到底無理なので諦めている身として、そう(アイボ)だ。これは20数年前の発売時、弟が購入していた。しかしあまり気に入らなかったようだ。1度連れてきて遊んだ記憶がある。けれど、たしか後援していた授産所かしらにほどなく払い下げられたようだった。あまり受けずに数年で製作も中止されていたらしい。

 これが近年再制作されている。新しい(アイボ)を調べてみる。

 じつは2~3年ほどまえ、銀座ソニーで新作の(アイボ)を見ている。あの時は姉のためだった。種々な点で姉には向かないと判断したが、思いがけず犬好きな自身が結構興味をいだいたものだった。それを思い出したし(アイボ)はさらに進化?しているようだ。もしかしたら老人の孤独を癒しなぐさめるに最適かもしれない???しかし、しかし、わたくしとしてはあまりに高額なペットへの試みとなる。その投資は果たして適切か!迷っている。

 日比谷、銀座で見たい映画が封切られている。少しがんばって見に行き、ソニーまで足を伸ばすべきかしら?そう、そうしよう。ぜひ今の(アイボ)に逢いに行こう!

追記
アイボとの対面をのぞみ調べたら、なんと初対面も大変らしい。指定日がかぎられ、近い日の予約はいっぱいになっている。あーぁ、逢いもせず家に迎える太っ腹は持ちあわせていない。なにか手段を講じよう。
どなたかアイボ情報お持ちの方がいらしたら教えてください。
でもこの文を書いている内に希望と言う光、やりたいことをする元気がすこし兆したように思えます。ありがとう!

2021/6月  わたくしの聖書?


 わたくしには2人、貴重な男友達がいてともに信仰を持っている。ことに小学校1~2年生のとき同級生であった友の信仰は深い。元来頭脳明晰な彼が10数年前、改めて聖書を原書から読み込み、理解、確信した後10年ほど前に入信したと聞いている。「エホバの証人」信者だ。

 2人の男友達は身体に故障を抱えつつもご夫婦共存して居られる。そして、独り過ごすわたくしをともに大らかに見守って下さる。同世代男性のその心意気はうれしく、頼りにもしている。

 ことにエホバの証人信者である友は、夫を失ったり、罹患したりのわたくしの落ち込みを知ると、慰め励ますと共に入信を勧めてくれるのだ。長く分厚い真摯な手紙を幾度か頂いたこともある。泪して読んだものだ。

それはやわらかに心を潤してくれた。けれどもわたくしは、不勉強は承知しつつも信仰は持てないのである。その意思表示はきちんと済ませている。

 そんなわたくしがこの頃気づいたこと。あーこの2冊の本はわたくしにとって聖書みたいな存在ではないかしら!?

[幸福論 アラン 白井健三郎訳]と[闘う文豪とナチス・ドイツ(トーマス・マンの亡命日記) 池内紀著]の2冊である。いずれも2~3年ほど前に買い求めた文庫本で、その折に読了していた。

 昨春来、時折の映画館通いがほぼ唯一の息抜きとなってしまった。コロナ禍を生きるにアップ・アップしている感じの日々。読む本もあまり深刻なものは心身を保ち得ぬ恐怖を覚える。だから楽しく読める本を選ぶのだがあまり面白いと眠らずに没入してしまう癖もある。

だから何時からか、就寝時には夕刊を見るようになった。睡眠薬の薬効も妨げず、ほど良い入眠前作業となる。

 そう、[睡眠をきちんと取ること]。コロナ下にあってわたくしはこれを最大の健康対策にしている。日々の睡眠が脅かされると老身は保ち得ないと実感しているのだ。

けれども、夕刊を読了しても眠れぬ夜はやはりしばしば訪れる、、、、、。

 数ヶ月前のそんなある夜、ふと前記の2冊を手にした。物語ではなく適当に硬い内容で、すでに読み終えている。引き込まれて眠れぬことは避けられるであろう!

これがとても良かったのである。すでに読み終えているが、幸か不幸か老いた脳が忘れている部分も多い(笑)

 [幸福論 アラン ]はどのページを開いても、地道に行動し前を向くように心励ます「言葉」が見いだされる。後記に付けられていたアラン年譜で知る、優れた哲学者であった彼が選んだ地道な人生の歩みも納得させられ、感嘆・畏怖の念が深まる。生来の気分屋で軽率なわたくしにはとても困難な生き方ではあるが、素朴な納得を禁じ得ない。

 暗い思いに閉じ込められそうなな今日この頃の日常。「期待を持って少しでも行動しよう!何か仕事をしよう!今日はせめてお掃除を!」極めて卑俗ながらわたくしなりにアラン師を日々想うのである。

 そして[闘う文豪とナチス・ドイツ]も、やはりわたくしには大きな拠り所となるのである。幾度・どのページを開いても!

 思えばその時50代に入っていたが、はじめての外国ひとり旅はトーマス・マンの生地リューベックだった。1泊して彼の生家や初期作品の俤をもとめ辿り歩いた、忘れ得ぬ旅である。あの街に、わたくしは少女時代から青春前期にかけて深い憧憬を抱いていた。

 [トニオ・クレーガー][ベニスに死す]の抒情に魅了された少女期。そして[魔の山]を読みはじめたのはたしか18才の終わり頃。あの頃からやっと思索・思考する読み方を覚えたように思う。

 子供時代のわたくしは少年少女向きな[ピーター・パン]等の児童書ももちろん好んで多く読んでいた。けれども溺れるように、家にある本全てに手を伸ばしていたのであった。(それは父の明治・大正文学全集や外国で求めた美術全集。転勤した叔父や従兄弟が置いていったアラビアンナイト・ポオ・乱歩・ルパン全集等々)小2の頃から手当たり次第に読んでいたのである。

 乱読のせいで小4で近視になった折に病院で勉強以外の読書を制止されると、押し入れに隠れて読みふけっていた。だからわたくしの子供時代、今さら恥ずかしいけれど正直、宿題以外の勉強をした記憶は無い。

 以来感覚のみに流されがちな読書歴を経て、10代も終盤ちかくで読み始めたトーマス・マンの[魔の山]。難しくて、思考・模索する読み方を強く意識したのを鮮明に覚えている。

今にして顧みられる愚かしく情動的なわたくしの少女時代よ!!(でも必ずしも悔いのみでは非ず)笑

 例によって話題が飛びました。[闘う文豪トーマス・マン]に戻ると、わたくしが畏敬するこの作家はナチス台頭の祖国を逃れ、1933年にアメリカへ移住している。以来ヒトラー、ナチス・ドイツ崩壊に至るまで講演・ラジオ放送などで積極的批判を一貫して行った。52年、マッカーシズムに荒れる米国を避けて帰国。その後3年ほどで逝去す。

 その戦中ナチズムとの闘いがやはり彼らしい。実に彼らしい。こちらもどのページを開いても納得の力を受けるのである。文豪の齢を超えた、かってのミーハー少女ファンが抱く再びの憧れは深い。

2021/5月  現在(いま)を過ごそう


 予想もしなかった苦しい日常が、先も見えぬままながく続いている。これを機に大きな利を得ている一部の人々はどうか知らないけれど? 全世界の、ひとびとの鬱屈とため息が聞こえてくるようだ。

 わたくしも勿論その一人で、新聞・本・テレビ・CD・近隣散策・息子の来訪・弟や数すくない親しい友との電話、メールとかを頼りに日々を過ごしている。そして、週に一度くらい隠れるように映画館に通うのが、かそけくも大いなる気分転換の行動であった。

 不安、恐怖が掻き立てられるテレビニュースは、意識して避けて来た。代わりに社会への窓として、新聞のみは毎日熟読してきたつもりだ。けれども病を持つ身はつねに心さみしく、大なり小なり誰しもが抱えている問題ごとに対しても、つい弱気、不安になってしまうのも避け得ぬ実情である。

 だから薬の世話になっている。初めてウツと向き合った時以来、抗不安薬とは数十年の付き合いであるから過飲はしない。生きるために日々をやり過ごす、大切な手段として上手に利用している。

 その他にも対策はいろいろ講じてもいるつもり。それはそれなりに忙しく、大変でもある。{脳・目・耳・手先・身体}

すべておとろえ、当然更におとろえ行く身であるわたくしが、新しい対策に挑まねばならないのだから(笑)

 先ず、昨秋高価な補聴器を片方紛失して5?6万円の品をネット購入したのだが早くも昨年末、またも右用をなくしてしまった。外出時マスクの着脱が多いせいだ。こんどはお店に行って購入するつもりだが未だ果たせておらず、、、、。さほどひどい難聴ではないので未決のままの課題なのだが、、、、この件は宿題!

 居間のカーテン、クッション、クロス等は息子の手つだいを得て、先日すべて夏ものにとりかえた。パリやプロバンス、そしてバルセロナ、アムステルダム等で求めた、好みの生地による自作の品々である。中でも最も古い居間の大窓用カーテン。これはもう4半世紀以上季節ごとに、懐かしみと爽やかさをもたらしてくれている。

 パリの老舗で入手したレースも、近年さすがにほころびはじめた。でも吊りフック部分を1昨年新しく取り替え、自身で仕立て直した。今年も無事美しく吊るすことが出来た。こころ和らぐささやかな悦び!

 目下いちばんの課題は、アマゾンプライムやNetflixで好みの映画を自由に選ぶ問題だ。昨晩秋、体調不調が進んだ折に先をかんがえ、ベッドで好みの映画を観られるようにと息子に機器を設置してもらっていた。

 けれども音声による指示は、舌がん術後のわたくしの発声では通じぬことも多かった。文字による指示は難しそうで未挑戦のまま、、、、。私が鑑賞することを希む、外国の古典映画の在庫もないことが多いようだ。なので、あまり利用せず、トライはほぼ投げられてしまっていた。すでに数ヶ月に及ぶ、、、、、

 けれどもここへ来て、またも厳しい自粛要請である。観たい映画館も閉ざされていることが多い。4月からふたたびわたくしはアマゾンやNetflixのトライを始めている。発音もやや改良したらしく、いくつかの名作を、カーペットに横たわって鑑賞することができる日もある。

 さらにお勧めで提示された作品も数本観た。近年の、あるいは昨年の新作であった。昨年観ることの叶わなかった良い作品にも出会えた。ひとり悦んだ。まだ自分でたのしみが見つけられそう!!

 現在(いま)をわたくしは生きている。まだ生きているのだ。現在(いま)を生きなくては!と近ごろ改めて思う。

 夫を亡くして11年。わたくしは常のように亡き人々を心に棲ませ、追想と会話を続けてきた。会話はわたくしの状況変化、成長??に伴い変化し、そこに豊穣を見出す折もあった。むろん多くは悔いへとつながるのだが、会話・回想を止めるつもりは無い。現在(いま)でしか交わし得ぬ会話も交わし続けているのだと思っているから、、、、、。

 現在(いま)をわたくしはまだ生きている。せっかくのアマゾンプライムやNetflixをもっと活用出来るよう。苦手なメカ操作にもトライして、古典名作にこだわり過ぎることなく、現代の作品で現在(いま)の世界を、もっとしっかりと見聞しよう! 現在(いま)をより大切に楽しんで過ごそう。持ち前の好奇心の蘇りをおぼえる。

 そうそう、そろそろベランダの花鉢の植え替え時だ。大きなひと仕事が控えている。

コロナワクチン接種日もやっと確保している。おぉ気うつよ、気うつよ飛んでゆけー!


2021/4月  やっぱり、映画は映画館で観たい!


 「不要・不急の外出は自粛するべし」わたくしも一応これに従っている。以来1年以上を経た。だがこれによってどんなに沢山の老人がこの1年で心身の健康を低下させられたことであろう?

 わたくしの親しい友2人も(電車に乗ると思うと、前日からひどく緊張するようになった)(歩く足元がふらつくように思える)(夫が出かけるのを嫌がるようになった)等、大きな影響を受けている。2人ともわたくしより1周り以上歳下であるのに・・・・・・

 11年前、81才で逝った夫。若し彼が存命していたら? わたくしの発病も重なり、共に、どんなに苦しく耐えがたい日々に陥っていたことであろう?? 昨年来のコロナ渦のもと、幾度も去来した思いである。
いくたびもわたくしはそう考え、独断による思考で対処できる今の立場を悦んだものだった・・・・・
むろん弟、息子への報告、相談はしたけれど・・・・・

 それにしても知に傲れる生きもの、(人類)の現在はくるしい。未来への見通しも立てがたいようだ、、、、。更にその苦しみはすべての意味で、障害者・老人・子ども・生活無能力者・大きくは世界的な移民・難民等々、弱者にしわ寄せがのしかかる結果となっているように見える。その重圧は日常に蔓延しているようだ。

 とにかく過酷な1年をどうにか終えた春。春だのに春と思えどこころ沈みつわたくしは、それでも例年行事である近場の桜並木を歩いたりしてやり過ごした。

 先日、再び発症した口内炎で転移再発の不安をかかえたが、それが無事一段落した。そして隠れるように家を出て、渋谷の映画館で2本の作品を観た。やすらぎと挑発、全く別種の映画だったが良い刺激を受け、少し自身をとりもどした思いで夜遅く帰宅したのだった。

 思考力もやや取り戻すほどに元気を得たと思う。その2作品を紹介させていただきたい。

 1「マックス・リヒターからの紹介状」
あるときはロサンゼルスの野外パークで、あるいはアントワープの大聖堂等々世界各地で開かれた真夜中の8時間に及ぶコンサート。作曲家マックス・リヒターが追求した、シンセサイザーも伴う演奏会。簡易ベッドも用意され、観客は歩いたり、小さく語り合ったり、寝入ったり・・・・思い思いの一夜をすごす。

 不眠症歴数十年、薬の欠かせないわたくしも映画館でやすらぎの世界に浸りました。
まだ調べていないけれどCD出ているのかしら?

 2「ノマドランド」
出演者は主役のフランシス・マクドーマンドとデビッド・ストラザーンの2人をのぞき、他の全員が素人であったと後に知り、さらに驚嘆した。

 キャンピングカーを家として、季節労働をしつつノマド(遊牧者)として生きるアメリカ西部の人々。老人が多いらしいがその人々の実態を彼・彼女らによってわたくしは始めて知ったものだ。

 フランシス・マクドーマンドは30年ほど前の「ファーゴ」以来目が離せぬ名女優! この映画は彼女の企画により作られている。

 企業倒産により街ぐるみ荒廃し、我が家を失ったネバダ州のファーン。もう60歳代に入っているであろう。既に夫も失っていて、古いキャンピングカーを家として最小限の荷とともに、ノマドとして生きる道を選択する。祖母からの遺品である陶器の大皿を唯一大切な贅沢品として。

 ノマド遊牧民としての生活を選択した彼女の日々。同様な生き方を求める人々との集会、巡り逢い。別れ。そしてそこには常に、西部の圧倒されるような大自然がある。雄大崇高、荒々しくもある美しさで彼らを迎え包み、受け入れている。彼らは良き労働条件と、良き自然をもとめ移動遊牧民として生きているのだ。

 ファーンは2度「家庭」に迎えられたり、同居を勧められるチャンスを得るが、ノマドとして独り生きる我が道を選択する、、、、!!!

 今期もアマゾンの集荷所で働き、愛車の傍らで大きく口を開きファーンは夕食にかぶり付く。その姿、馴染んで来た。多くの出会ったノマド遊牧民たちの中に色々な意味で未だ脈打つ、アメリカ開拓民の魂に、わたくしは触れた思いがした。

 靱い、靱いひとびとが居るのだ。アメリカには!! わたくしにはとても真似し得ぬ自尊の信念のもとに、自由を選び、独りを生きる道を選ぶ人々がいるのであった。以来わたくしは気の弱りが起きた折り、叱咤、激励の応援を少しながら受けているように思う。

 そして又、底知れぬアメリカの人々の力が垣間見えたようにもおもえたのであった。あのノマドの人々の底力。それを裏返し、或いは変換させると、企業倒産し荒廃した地方都市部から流れ出た多くのトランプ票も、理屈ぬきで想像できたのである。

 言い訳は立つようだ。これからも歩ける間は好奇心とともに見聞を保ち、確かめるためにも映画館に出かけよう!


2021/3月  物置の扉キー不全問題から・・・


 先日のこと、洗濯中に問題が起きた。
築後60年近いマンションの一室である我が家の洗濯機は、ベランダに設置されている。洗い物を入れてお湯を流し始めてから、洗剤を取り出そうと物置の鍵を開けようとしたところ、開かない。

 慌てて扉の鍵穴に鍵を入れ直し廻そうとするが、どうしても開かない。焦った!まだ新しい物置だが、鍵か鍵穴に問題が生じたらしい。数度繰り返してもダメだった。どうしても開かない。

 この冬は予期せぬ事態に見舞われることが多かった。買い置きしていた消毒液の栓が壊れていて開栓できなかったり、階段の最後の1段を寝ぼけ眼で踏み外してしまったり。手すりを握って身体を支えていたのでちょっとした肉離れで済み、幸い歩行も順調に回復。と安心したのも束の間、今度は左耳が化膿して小さな痛みがある、、、、。

 左耳の件は、近年使用してきた補聴器をマスク使用時に片方紛失してしまい(悔しくも片方で十数万円もする高価なものだった)お手頃価格の品を購入して使っていたのが合わなかったようだ。
「もしや癌が耳に転移かも?」との不安もよぎり、付近の耳鼻科医院をネットで検索中、なんと10年間利用してきたパソコンが動かなくでなってしまった、、、、。

 コロナ下で日常の不安定感をぬぐえぬ中、それら連続して起こる受難をなんとか克服したと思えた途端の、物置の扉キー事件だった。
仕方がない。とりあえずはこの洗濯を終えねば!
家の中に洗剤はなかったから、キッチンに置いていた化粧石鹸を衣類にすり込んだ。石鹸はみるみる小さくなった。あーぁこれは確か、お土産にいただいたプロバンスの石鹸だ!

 そう、残り少ない人生を思って身辺整理に集中した晩秋に、キッチンの石鹸も上等品を下ろしていたのである。どなたに対してだか、何ものに対してだか、詫びる思いが胸を行く。
贅沢なお洗濯をしちゃった。

 そしてハタと、やっと気づいたのである。物置の扉に一生懸命押し込んでいたこの鍵は、玄関の鍵ではないか!
前日の帰宅後だらしなく鍵を放置し、決められた場所に戻していなかったのであった。

 ところで嘘のような本当の話で、実はわたくし、若い頃よりも近年の方が忘れ物、落し物が少なくなっているのである。
振り返れば小学校入学式の日、校庭で「自分が着けているリボンの色の列に並んでください」と言われてハタと困った。名前を書きリボンを着けたハンカチが胸に無い。
青いリボンだったとは覚えていたが、着けていないので列に入れない!!!

 で、わたくしは列の後方でうろうろしていた(らしい)、、、。

 4~5年前に姉と話していて、姉が学校で常にわたくしがみんなと行動出来ているかを心配し、見守っていてくれていたと初めて聞かされた。
それは、現在も親交のある2年生まで同クラスだった聡明で優秀な男子同級生からかねて聞いていた話とようやく一致した。
「綺麗なお姉さんが、教室の窓からいつも心配そうにわたくしの姿を求めていた」と、、、、。
 入学式の朝、わたくしは母か女中かに着けてもらったハンカチの位置が気に入らなかったのであろう。自身で止め直したのを覚えている。その止め方が不確かだったのだ。

 いけません。老人の話は取り留めなくって。懐旧と悔悟が止まらない、、、、、

 お話を戻すと「10年ほど前から忘れ物が少なくなった」と言うのは事実で、その頃から自身の不注意を大いに意識するようになったのである。そう、振り返ると、夫が亡くなり独居生活が始まった頃と重なる。翌年に母も逝った。

 子供の頃、母によく叱られていた。「喜代ちゃんは依頼心が強いから」と。わたくはそんなことを意識していなかったが、事実だったのであろう。

 1昨日は母の、そして今日は夫の命日。二人に誓おう。「ボケによる忘却は許してくださいね。これからも出来るだけしっかりとして生きて行きますよ」と!

<追記>
 良いこともありました。姉が精神病院から施設に帰宅して約半月。スタッフの見守りの中、無事適応して過ごしています。電話でわたくしの声を認め、会話にならぬ会話を交わす日々が戻りました。
大きな大きな安らぎです。ご心配いただいた方々に深く感謝しております。

2021/2月  セントバレンタインの祭


 「セントバレンタインの祭りの夜 ケイトは羊飼いの少年に恋をした」 わたくしの記憶に間違いがなければ、高校生で17才の頃愛読していた上田敏訳「ベルレーヌ詩集」の中の1節だ。

 詩集の後注により、セントバレンタイン祭りの言われを知ったわたくしの秘そやかな歓び!親友にも語らず、それはその後の長い年月わたくしのみの密やかな歓びとなっていた。2月14日はわたくしの誕生日だったから・・・・・
でもいつの頃からかしら?バレンタインディが華やかなチョコレート合戦の場になったのは?

 そう、振り返ればわたくしの、自称・他認の悪運歴はこの生まれ出でた日から始まっていたように思われる。大切な青春時代から多分20年ほどは一人よがりな歓びを保っていたと思う。思えばめでたくも良き日々よ、、、、(苦笑)

 そしてコロナ禍中の今年も、厳しい世情の中、チョコレート合戦は華やかに展開されているようだ。
多くの人々が、様々な苦しい問題の中に放り込まれているのが現状だ。わたくしも個人的にアルツハイマー型認知症を患う姉の正気を急激に大きく失ってしまった。昨年11月の半ばであった。

 10月初旬、施設長の理解をいただき5日間、わたくしが訪問を果たした折の姉は、まだまだしっかりしていた。すぐに忘れ去られることではあるが笑顔で迎え、会話・食事・笑いをも共にした。別れの時には涙していた、、、、、。

 プロの方々の心込めた介護と支えのおかげで、姉はシニア施設での一人住まいをどうにか保っていたが11月初旬、ついに限度が来て別館の病棟に移された。それが発端であった。
日常に、誰ひとり知る顔がなくなったであろう。白衣・手袋・マスク姿、さらに男性の多い病棟で恐怖感に囚われてしまったと思われる。無論コロナ下の病棟の人々の緊張下にある動きも姉には理解できなかったでしょう。悲しいことに姉の正気は大きく急激に失われてしまった。

 今姉は精神病院に入院している。姉にその能力は無いので電話も交わせず、一方的なファックス送信をし続けているのみだ。姉を思うとき、わたくしも限りなく辛い悲しみに陥る。けれども弟とともに、姉の月半ばの退院、住み慣れた施設への復帰を今現在の希望としている。それに向けて動いている。でもコロナ下にある施設の状況も当然厳しいのである。

 希望は通じそうだけれど未だ見通しの定まらぬ中、弟も言う。「コロナ下のこの現状の中、どうにも他に術はない」その通りなのだ。それが日本の、世界の、現状なのだ。人類を試錬するかの厳しい現状なのだ。
先ずは生活苦に追い込まれている人々を思う時、この悩みは・・・・贅沢であると言える。それを頭では受け入れる。受け入れようとする。

 弟との電話を終えわたくしは、これは独り住まいの特権でしばらく誰はばからず泣き伏した。そして思った。姉を愛している。こんなにも想っている。「あぁ、もうすぐバレンタインディ」今まで以上に思いっきり、姉への愛を姉に告げよう!!伝えよう!!!

 思えば大きく大きく、そして優等生らしい厳しさを込め、受けてきた姉の愛。いいえ姉ばかりではない。多分にADHD的で、できの悪い人間であるわたくしが受けた大きくたくさんな愛!心に多くの顔が思い浮かぶ。

 これも独り住まいの特権。亡き人々をも含むその人々にだれ憚らず大きく、わたくしは告げよう。愛している、思っています。こんなにも、と!

2021/1月  2021年我が家にて迎春


 この先の展開に大きな不安を抱えつつ迎えた新たな年、2021年。我が家も、ささやながら穏やかな迎春を終えた。頼る神仏を持たないわたくしは、いつものように天空に向かい感謝とともに語りかけの眼差しを捧げるのみだけれど、、、、。

 夫を亡くして以来毎年、姉のもとに赴いて新年を迎えるのが習わしになっていた。さらに5年前、姉のシニア施設に入居以来は、その充分な御もてなしを享受してきていたのである。

 しかし、昨年来我ら姉妹も厳しい急変に見舞われ、例年の習わしは叶わぬこととなった。従って10数年来独り身になっている息子が大晦日から2泊して、久しぶり我が家で親子2人による迎春が決まっていた。

 おせち料理は彼がネットで手配で持参してくれるとのこと。けれど5~6 年ぶりに作るお雑煮。思い出すのに、しばし掛かったものだ(笑)
しかし暮れのうちにお隣のスーパーで買い物は自身で済ませていたし、何しろ、老いて病身であるとの言い訳を持つ身分である。お気楽に構える。
 
 大晦日の夜には、上等なぶ厚いステーキを焼き、わたくしも1/3ほどいただいた。実に10数ケ月ぶり口にすると思えるお肉の塊!柔らかだったので無事味わえたものだ。美味なり!!

 元日、お屠蘇は省いたが、こぢんまりとした料亭のおせち重は美しく、仲々の美味。これだけの品を整えるには大変な費用と手間がかかる。長〜い主婦歴を持つわたくしは息子に心から感謝しつついただいた。

 会話とシャンパンははかどり、いずれも尽きない。さすが酒量の減っていたわたくしも続くワインについ手が出るのであった。

 お風呂に入り、だべっているとさて夕食である。暮れに抜かりなく手に入れた見事な子持ち舌平目1尾。これで簡単、かつ、おせち料理にも相性が良さそうなアクアパッッアを作る。さすがのんきなわたくしも、調味料、食材もすべて暮れにしっかりと点検、確保済なり!

 舌癌術後約半年、わたくしは未だ痺れの残る舌の感覚に自信がない。息子に味見もしてもらい、我ながらおいしく美しい主菜1品は完成した。これに作り置いた赤・黄ピーマンと玉ねぎを漬けたピクルスも添えて、おせち重と並べれば、楽しい元旦の食卓が整う。

 しかし、さて盛り付けの段になり、ハタと気付いた。ただの1枚すら、我が家にはすでに大皿が無かったのだ!

 昨秋、終活・生前整理にまい進していた私は、ほぼ見事、戸棚の中の愛蔵品を親しい人々に受け取っていただいたのであった。
 あの頃、新治験薬キートルーダへの期待は持っていなかった。10月初旬兵庫の姉を訪れ、最後と思う処事整理を経ての帰宅後、体調は急激に衰えていた。「手術、化学療法等何も手当を受けぬ場合は余命半年」との言葉を受けていたから、勝手にあと1年以内の命と決めていたのである。

 出来る間は我が家で暮らそう。そう思った私は、日々目にする室内風景をほぼ変えなかった。けれども遠からず体が不自由になったら2F寝所での生活は維持できなくなる。その時はベッドを1Fに据えることになり、今は食器などを収めている戸棚は衣類他の収容に必要となる!

 で、約2か月間、愛蔵品の生前整理に心身を傾けていたのだ。
体力や判断力が少しでも確かなうちにと努めた。親しい人の助力にも甘え、11月半ばにはほぼその作業を終える事が出来た。ほっとしたものだ。

 その頃から、画らずも体調が上向きになってきていたように思い返される。

 そして、元旦の主菜を盛り付ける大皿がないという問題だ。
 1瞬迷った。階段や室内に飾られたプラハやアッシジの絵皿、あれを降ろし、洗って使おうかしら?しかしすぐ否定する。大きすぎるし、たーいへんだ。

 早とちりを息子と大きく笑い合った。新春の大爆笑!!

 そして白い平目に散るアサリ・ミニトマト・グリーンオリーブ・イタリアンパセリも美しい1品は、でんとフライパンのまんま鍋敷きの上に置かれたのである。

 美味であった。