白い卓布の上にレモンがひとつあったとしよう。そのモチーフをよく眺めた後、その横になんでもいいのだが例えばリンゴを置いてみる。そうしてまたよく眺めてみる。レモンの黄色はリンゴを置く以前とまったくおなじ色には見えないだろう。いろんな感じ方があるだろうが、例えばリンゴの赤味が微妙にレモンの黄色に反映し微妙にオレンジがかって見えるだとか、、、。他にもさまざまな変化を指摘することができるだろう。
この変化に関しては光による影響がおおきい。そういった自然の効果、さまざまな個々の物が並んだ卓上に繰り広げられている世界を、じつは光による色彩の反映の効果として統一的にまとめあげることができるということに最初に気づいたのはシャルダンではないだろうか。
シャルダンの絵画には後の印象派にじるそれ以前の絵画には見られなかった統一感、全体としての効果が現れている。だからこそデイドロ(だったかゴンクール兄弟だったか忘れてしまったが)はシャルダンを評して「普通の画家の作品を鑑賞するときは、意識的に絵画を見ようとする態度を強制させられるがシャルダンにはそれがない。観る者はただ眺めればいいのである。」というような意味のこと言っていた。
私たちは、通常、物には固有の色彩があると思い込んでいる。それはある意味で事実であるが、その物が現実に存在するということはその物が置かれている状況というものがあるのであって、なんらかの物理的な影響下にあるのだということを意識することは少ない。私たちが物を見るということは、じつは自然の物理的な現象を見ているという言い方もできるだろう。
そのことをもっと押し進めて「いや、物など存在しない。自然の効果そのものを見ているのだ。すべては網膜上でおこることなのだ。」と宣言したのが印象派であると考えてみれば、シャルダンの絵画と印象派の絵画は見た目ほど違うものではないということがわかるだろう。
そしてセザンヌはその網膜上の効果にすぎぬ印象派(セザンヌはモネを「素晴らしいが眼にすぎない」と言っていた)を乗り越えようとしていたこと、このことについてはまたそのうちふれることにする。 |
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