Atelier Sagan
ご案内 スケジュール イベント トピック エッセイ リンク 各クラスが独自に運営するページです。 サイトマップ トップ
高橋さんの部屋 おでかけエッセイ 展評
キヨエッセイ/2012
1ヶ月に一度、つれづれなるままに書きとめられた高橋さんの文章は
笑いあり、考えさせられたり。みなさんの清涼剤になれたら・・・




2012年/2011年2010年2009年2008年2007年2006年/2005年/2004年2003年2002年2001年

2012/5月 北への旅


 先月初旬、国内7連泊の旅をした。考えてみると国内でこんなに長い旅をしたのは始めて。
当初は奥塩原温泉で3連泊の姉弟会のみを予定していた。でも、かねて被災地の現状を自身の目で視ておきたいと言っていた姉と、思いきって2人して足を伸ばすことにしたのであった。

 僅かながら母が昨春残したお金、それを姉弟およびその連れ合いをふくむ6名で親睦をつづけるために利用して親睦を深めよう、と皆で決めていた。で、亡くなった昨年は納骨旅行。今年は晩年の父にゆかりのあった奥塩原への旅が起案されたのだ。

 おまかせ一任で、幹事はわたくしが引き受けた。みんな年なのでひたすら温泉で休み、美味しい食事、お酒と会話を楽しもう。さらに目玉として、専用露天風呂つきの客室にこだわる。じつはわたくし銭湯文化のない旧満州大連生まれのせいか、いまだに友人、知人とともにお風呂に入れない。入りたくないと言うのが真情だ。もっともこれは単に(ハダカのみっともない自分を晒し得ない、晒したくない、わたくしの狭量さのせいでしょう)とは以前から自覚しているのだけれど。

 幹事の特権できめた、渓流に面する部屋のテラスで気ままに浸る露天風呂はなんとも気持ちがよい!。運転手さんつきの小型バスで周辺の半日観光をしたのみ、後は一同ひたすらにのんびり・・・・。そして我が実家の悪癖である長い、ながーい夕食会。義妹達もすっかり馴れっこで到着夜をのぞいた2晩は3時間近くつづく宴会となる。

 さすが飲食の量は減っているが、会話はいつ果てるともない。担当の仲居さんに気を遣っての散会のくりかえしとなる始末。母も飲みすぎを案じながらよろこんでくれたに違いない。 夫も共にしたかった、その贅沢温泉旅行も3泊で終了。4日目、那須塩原駅で弟達夫婦とわかれて散会。さて北へ・・・・。

 次ぐスケジュールも、わたくしがネット検索でおおまかな予定を立て、まず宿のみは確保していた。岩手も果ての久慈に2泊。かえりの路線は現地での状況次第ときめ、松島でさいごの2泊を決めていた。

 八戸までは新幹線の乗り継ぎ。さらにローカル線で目的地久慈へ、夕刻やっと到着する。なるべく普通の生活に触れよう、と選だ宿はすぐに解った。隣接してカフェもひらいている経営者夫婦はとても忙しそう。さっぱりした対応が民宿のようだ。

 その宿は復旧のため仕事をしている方々に、会社が宿泊施設として利用しているいるケースが多いみたい。大多数が馴れた長期滞在者のように見受けられる。(洗面所、トイレは各階共用。お風呂は交代制、札を入り口にさげて入って下さい)と説明をうける。

 カフェでコーヒーをのみ部屋に落ち着くともう食事時間だ。食堂(カフェ)での夕食は素朴だが、お魚の素材がよく、量も多い。ご飯は食堂テーブルに電気釜ごと用意されていた。お代わり自由らしい。

 お風呂には2人ともさすがに入れない、落ち着かなくって不安なのだ。なるべくありのままの姿の現地を見学しようと思い決めた宿。なにしろ価格だって昨夜までの宿の1/3以下なのだ。でも寝具はとても清潔でふんわりとしていた。

 翌朝、行動開始で駅へ。4月1日から三陸リアス鉄道が再開されていた。と言ってもバスによる代行部分もあり、全開通は2014年になるとのこと。まだまだ厳しい未来であることが実感される。わたくし達は田野畑・田老などの被災地まで足をのばすことにした。

 三陸リアス鉄道に乗るのは始めて。途中沿線はリアス地特有の景勝がつづき目を奪われるよう。そして田野畑・田老地区など災害の跡地から海をのぞむと、(世は総てこともなき)かに天然の美が展望されるのであった。被災地はこんなにも美しい地だったのだ。無残な地に立ち、うらはらな残酷さが身にしみる。

 代行バスとの乗り換え駅で声を掛けて下さった60代男性は、4年前まで某電気工事会社の社員として東京で働いてらしたとのこと。災害時や今の暮らしを、そして列車の中では「あのあたりの田んぼがみんな海水を被ってしまいダメになった」などと説明をして下さる。こころ優しい方だった。

 田老では姉と日本一を誇っていた長い防波堤をただ、ただ歩く。行きにすれちがったのは老いた男性と、欧米人2人連れにその案内者らしい女性。後者とは互いにあいさつを交わしたが、前者には目礼のみ。防波堤の上でやすみ、周辺を観察して同じ道を元へたどる。

 こんどはまだ子供っぽさの残る制服姿の男子中学生と行き交う。目礼も会釈もできない。この防波堤は、今現在残る建物や道路への近道ではあり得ない。[ここを通るのみが目的である]はずだ。先の老人も、この子もきっと目的を持ってひとりで来られたのだ。その目的が察せられて声はかけられない。

 翌朝久慈からバスで二戸に出、盛岡~仙台~松島へのルートを取る。昨日三陸鉄道の代行バスが通った山間の地も、まだところどころ雪が残り木々の気配がうつくしかったが、二戸への山あいを抜ける道にはさらに多い残雪だ。響き合うような、こんもりとした樹林にまだ春は見えない。気高いまでのしじまが煙るように山林に漂い、不意に清冽にほとばしる渓流が現れる。

 ほんの1時間強の区間だが山中の停車駅は少なく、岩手が生んだ人、宮沢賢治の物語が沁み出るように心に呼び覚まされた。こんな地から生まれた言霊だったのだ。あれらの物語は・・・・[岩手は美しい。海も山も!!]

 2人とも立派な?後期高齢者だ。それを言い訳にして、松島では絶好の眺望を謳っていた温泉宿を予約していた。被災地の旅はやはりとても疲れてしまうものだ。着日は夕方だったし、3日ぶりの露天風呂(贅沢はつづけませんでした。大浴場です)でまず休む。

 夕食はまたもや海山の幸が豪勢にならぶ。一応よろこび、ご当地日本酒も幾種かたしなむ。1泊して翌日、朝食のあと横になったら午後まで寝込んでしまった。2人ともに・・・・。

 せっかくの日本3景、あわてて最終遊覧船に乗り(3時半発)湾の内外一周に参加した。大小無数の島々が点在し、それが天然の防波堤となり周辺が守られたことが目の当たり理解できる。それにしても宿からの眺望をふくめ松島はすばらしい。

 宿での夕食時、姉に「日本3景のうちどこが一番と思う?」と聞かれた。宮島、天橋立にはお互い、いずれも2~3回行っている。わたくし松島ははじめて、姉はむかし、高校教師時代に修学旅行の引率で1度来たとのこと。(それはご愁傷さま!お疲れさま!)

 迷わず答えた。「ここが一番だと思うわ」そう言い切れるほどに、緑なす島々の浮かぶ凪の海は美しい。3・11の記憶のせいもあるのかしら?繊細優美な日本的美しさにくわえて、島々を望む眺望に男性的強さと、女性的勁さがどこか儚く無常に映るのであった。紅く塗られた長い橋が架かる島にはとうとう行かなかったけれど。

 余談だけど、(今後日本国内連泊旅行をすることがあったら、絶対ホテルを主にしてマイペースな食事を摂ろう)と痛感したものだ。朝夕のご馳走責めは4日目くらいから負担となり、それでも目前にやれ、岩手牛・ご当地マグロです。あるいはこちら、仙台牛タン・蟹・海老・です。などと供されると、あさましくお腹に収めようと頑張ってしまうのであった。今回の旅疲れには胃もたれもあったと、とても反省かつ恥じてもいる。

 最終日午前10時半、松島駅に荷をあずけるとやはり途中バス代行を伴うJRで石巻市に向かう。東松島あたりから無残に残された駅舎跡など、被害の跡が目立ってくる。辿りついた石巻では「タクシーより観光タクシーを」との観光案内所、職員の方の助言に従うことにした。

 50前位の運転手さんは要所要所を説明しつつ、短い持ち時間内で、最低見るべき場所、知りたかった事を的確に廻り、語って下さる。彼自身の失われた家の跡地も見せてもらい、妻、母と2階でやり過ごしたその夜の恐怖も聞かせてもらう。

 かってその直線の長さで東洋一を誇っていた、との船着き場にも立った。そこであの日の体験やその後を聞いていると、田老の堤防に立った時と同じように、その日そのときの地獄図が脳裡に浮かんでくる。すると頬がヒクヒクと痙攣してきて、それは中々止まらない。わたくしは頭をふって想像を追いやるのだった。閉じこめるのであった。

 どうしてもそうしてしまう。申し訳ないが、今のわたくしはそうせざるを得ないのだ。取り込むのが怖くて、辛くて・・・・。人はこうして直面視を避け、忘れようとするのだと身を持って知る。(視たくないものは視ない)現地にまで行ってこの始末。

 運転手さんは現在仮設住宅住まいとのことであったが、(先の案内所の40代女性職員もそう言ってらした)中心地にちかい、500軒の仮設集合住宅も回っていただく。ここは地理的にも建物の材料でも(プレハブであった。トタンよりずっと凌ぎやすいらしい)人気の施設だそうだが、1軒に窓は1つのみ。2間つづきにキッチン、浴室と縦1列の長屋作りとのこと。どこもそのような造作になっているそうだ。 500所帯集うにしては静か、気配が静まっている。

 今度の旅は心底つかれて帰ってきた。帰宅後2日間、ろくに食事も摂れなかったし、好きなワインすら2日飲めなかった。以前よく半月以上も外国を旅したものだが、今度ほど疲れはしなかった。原因はいろいろであったと思う。後半4泊は物見遊山気分での計画ではなかった。だがこの目で見ようと行ったのに、やはり視ることを避ける自分を甘やかしてしまう。その自分を又も視てしまう。その繰り返し。イロイロな意味で自身の心身の老いが自覚もさせられた。深く。

 だが、あの地で出会ったたくさんの方々。生きて、働いて堂々と体験をかたり、「知って下さる事、来て下さる事が嬉しい。応援してくださる事になる」と語っていた人々は、わたくしにもこの上ない力を与えて下さったと感じている。相変わらずへこんでしまう時に、北国で働いていたたくさんの人々のお顔が浮かぶ。申し訳ないけど今のわたくしは、あの人々にかえって励まされているのである。

 駅で、旅館で、売店で、案内所で、その他それぞれの職場で出会った人々は立派だった。そのたち振る舞いは、けっして愚痴っぽくない。おおくの方々が健気にあかるく働いておられた。人が、生きるために生きる姿を美しいと思い、わが心まで少し清まりました。北国のあの人々に深い尊敬を捧げている。あれからずーっと。

 でも忘れえぬ気掛かりも残っている。あの日々、折に触れひしひしと感じた、多くの(気配なき人々)の存在だ。仕事口もなく、家も家族も失い、表に出る事なく、出る気力も失った多くの人々。見えないその人々の存在が感じられてならなかった。

 それでなくっても厳しい今の時代に、弱者への坂をころがり落ちていったたくさんの人々。今なお声も上げ得ず、ひっそりと日々をしのぐ弱い人、弱くなってしまったみなさんが確かに存在している。

 お金がいちばん役に立つに違いない。ミモフタモナイがやはりそう思う。せめてお金を何とかしてあげなければ!愚かで狡い老人であるわたくしの頭に浮かぶのはこんな、なんの役にもたたない考えでしかない。だから、せめてささやかな寄金をしよう。今度は日赤は止そうと思う。具体的に的を絞りたいものだ。小さな事だが、それを今調べている。

 さいごまで付き合って読んで下さった方、ありがとうございます。個人的な感慨もふかく、ツイツイ書き連ねてしまいました。


 
2012/4月 ふたたび夫を送り終えて


 わたくしは諦めのわるい人間なのだ、そう思い知らされたこの1ヶ月だった。夫の納骨日が決まると今さらに心みだれ、うろたえて何事も手に付かぬような日々を過ごしたのである。すでに2年を経て大分馴れてきていると思っていたのに、、、、。

 信仰を持たない私たち夫婦であった。だから重くて大きな骨箱は、虹を刷いたような彩りのシルクスカーフに包み、うちで一番上等なアームチェアーにずっと安置していた。わたくしの部屋に。
辛いとき、逢いたくてならないとき、なにより、もう間に合わないのに、思いやり少なく無神経にすごした日々を詫びたい時などなど、折りにふれ丸ごと抱え込み話しかけた。一人っきりだ誰はばかる事もない、見栄や張りもない号泣もした。意気地ない話しだけれど逝って後、その波のくりかえしがほぼ日常だったのだ、正直なところ。

 信心という拠り所を持たぬ者の哀しさであった。あの重く大きな存在感。それが目前から失われるのだ。まさに形もなく・・・・・・。日が迫るにつけ、その現実がつらさを増してくる。気分を引き立てようと、シンプルだが手間のかかる春服の新調に時間をかけたりもしてみた。だが趣味のたのしさ、完成のよろこびもほとんど無い。

 夫の遺骨を、ほんの少しわたくしは我がために取り分けることにしていた。納骨日が迫ると(何を夫に着せようかしら)本気でそれが最大の関心事になったりした。ウロウロとわが家でもっとも美しい布を求めて引き出しやたんすを物色する。遺骨をつつむ小さな布袋をつくるために・・・・。

 しごとや友と会う日以外はこんな風に過ごした。むろん映画もむさぼるように観る。しかし独りでいるとき、つねに茫々と胸底を吹き流れる風の音があり、体を抜けてゆく風穴に耐えがたさを覚える。

 その期間に感じたことである。失礼で且つとても不謹慎な例えとなるのを弁えつつ、言わせていただく。3/11の大震災をよく考えた。罹災された方々の言葉にならぬ苦境が想像出来るように感じられる。あの方々の悲嘆と苦しみを思うとき、我が身に起きていることは普通のこと、ありふれた出来事に過ぎない。当たり前に受け止めるべき事態なのだ。

 [とても、とてもこんなものではない、比較になどなるものではない。でもあの方々は生きて居られる。生きようとして居られる]そのことをしばしば思い、みずからの甘えを恥じ、自戒したものであった。こんな受け止め方を、どうぞお許しいただきたい。

 昨日、義理の息子と、息子、わたくしと身内のみで式は無事終了した。僧侶お二人の読経も思っていたよりずっと短かった。ご住職はこれまでのやりとりで、わたくし及び一同の無信心をご存知である。短く思えたのはそのせいであろうか? わたくしは長いお経を覚悟していた。背筋を伸ばし、経典の意味を少しでも解り取ろうとしていたその身構えはすっぽらかされた感じ。

 一人っ子の夫は父母、曾祖父母に溺愛されていたのをわたくしも見聞している。素朴に信心を受け入れていたその人々が眠る菩提寺に、夫を納めるのが目的の今回の儀式であった。それは又、お寺さんの責務遂行を檀家としてお受けする儀式でもあるのだ。わたくしに取っては。

 息子を通じ伺っを立ていた、戒名授与・納骨式・そして石屋さんの墓碑銘刻入その他に要する費用は予想よりずっと低額であった。でも、お金に関してきちんとして、きれいだった夫の美点を思い、彼の意に沿うようにしよう。浄財となるべく、予定していた全額をお布施につつんだ。ご住職さまは、あとでもっと丁寧な読経にするべきだったと思われたのかしら??

 帰途、夫とともに2~3度行った田園調布の喫茶店に立ち寄る。コーヒーが美味しい。その頃にはわたくしも大分落ち着きを取りもどしていた。それからわが家での夕食会にする。外での会食も考えたがやはりわが家でと、前日、なかばパニックの中で夫好みの料理をすこし贅沢に用意したのであった。心置きなく話す。おたがいに・・・・。

 逢うたびにうち解けてくる義理の息子も、気持ちよいほど食べ、飲み、話してくれた。夫がこの様子を見たらなにより喜んだであろう。生前もともに食事をする機会はけっこうあったが、こんな風にきりもなく語り合ったことは無かった。それぞれが、それぞれないきさつを胸に持ち、こころ開ける間柄ではなかったのだ。でもこの日は終電を心配しての散会となる。遅すぎたとは言え、やはりうれしい展開だ。おたがいに。

 今日疲れは出ているが、心は確かに一段落をみとめ受け入れている。無駄な儀式、無駄な悩みではなかった。夫の形はほんとうに小さくなったが、存在はよりわが裡なるものとなった。わたくしと共に、さいごには外国の許される美しい地に撒いて貰うべく息子には厳望?厳命してある。

 それは海か、地か?規制も多いそうだからこだわり人間としては調べねばならない。やれやれ、老後もなにかとお忙しいこと!


 
2012/3月 バスの相客、雨の日に


 昨日のこと、冷たい雨と相変わらずのきびしい寒さのなかでバスを待ちつつ(もう春は来ないのではないかしら)ふっとつぶやいてしまう。心中の弱音が洩れてしまったのだ。バスが来た。始発駅に近いからじゅうぶんに空いていた席にすわりこむと、まだ読み始めたばかりの村上 龍の古い本を早速開く。「イン ザ・ミソスープ 」だ。

 通り過ぎるのみの者にとってはその猥雑さの表面しか窺い知れぬ新宿歌舞伎町。その風俗が生々しい描写でせまり、起きるであろう事柄の禍々しさを予感させる。読んでいてつらいが、目の放せない筆力は正攻法である。97年に出ているこの文庫本。先月大阪での乗り換え時、私鉄駅構内にあるおなじみのブック・オフで、大急ぎ5~6冊求めた中の一冊だが、実は古い時代の村上 春樹と間違えて買ってしまったのであった。

 先年大流行した「1Q84」を読んだとき、わたくしは奇妙な感覚にとらわれた。バッハをリチャード・クレイダーマンの演奏で聞いているような感じがつねに漂うのだ。 面白いし、主題のふかさ、奥行きも読み取りうるが、そのシュールな展開に現代のエンタメ性ムードのようなものが感じられてならない。

 バッハをクレイダーマンの演奏では聞きたくない。それが読後結論として残った。ジャズ通らしい氏だ、ジャズ風なら受け入れられるかもしれないけれど・・・。

 ところがその後読んだ80年代の作品「羊達の沈黙」には、ふかく打たれた。思考も感情もすなおについて行け傑作だと思った。じつは90年代末の出版時に読んだ「ノルウェーの森」。世間では評判が良かったが、これもあまり感心しなかった。思い返すとノルウェイの森も、ビートルズがバックミュージックとして感傷的に流されていると受け止めたものだった。だからこそ、改めて彼の古い発行本に興味を起こしていた。古本のほうに値打ちを認めていたのである。たぶん時代感覚が古いのでしょう、わたくしは。

 人がうごく気配に、村上違いだけれど読みふけっていた本から目を離す。降りるのは終点だから安心だ。本を読んでいると、よく乗り越したり、到着にあわてて下車して忘れ物をしてしまうことがある。そろそろ終点も近そう、気をつけようと顔をあげる。いつの間にか車内は人でいっぱいだ。

 立っている女性が笑顔でふりむいている。その視線の先、わたくしのすぐ前の席に親子連れが乗っていた。窓辺でちいさな男の子が立って外を見つめ、隣りの若い母のひざには赤ちゃんが抱かれているらしい。30代位のその女性は、赤ちゃんをのぞきこむようにして、あやすような明るい微笑みを注ぎ次の駅で降りていった。おとなしくて姿も声も聞こえないけれど、赤ちゃんを想像してこちらもやさしい気持ちになる。

 やがて終点恵比寿駅前に着いた。暖かいので外していたスカーフを巻き、ゆっくりと流れをやりすごすと傘もわすれずに席をたった。ステップを降りようとしてふりむくと前の母子連れが最期の客として席を立つのに目がいった。男の子はまだほんとうに幼げだし、若くきゃしゃなママの胸にはすっぽりとつつまれた姿の見えないベビー。ベビーカーも持っていないようだ。

 思わず声が出ていた「お手伝いしましょうか?」「ありがとうございます」と言われて小さな手をつなごうとしてハッとした。愛らしい、ほんとうに愛らしい瞳でその子は無心にわたくしに手を伸ばしている。でもその幼くちいさな体はやっと歩き始めぐらい、とてもこの階段を下りることは出来ないであろう。抱っこする他ない。でも古いタイプのこのバスのステップは高い。

 老人が申し出るなんて間違っていた、と正直後悔した。ためらった。さいわい雨はほとんどやんでいるが、着込んでバックや傘を持っているわたくしだ。しっかりとこの子を抱いて降りられるか?万一よろけて落としでもしたらたいへんなことになる。孫もいないので、赤ちゃん抱いたこともずっとなかったのに!ためらいが大きくよぎる。

 でもその信じきった瞳にもう両手が伸びていた。抱き上げる。(だいじょうぶ、軽かった)ゆっくりとしっかりと階段をふみ無事におり立つ。降りるとさらに嬉しい手が差しのべられていた。気にかけて見守っていたのでしょう、先に降りていた若い女性が立ち戻り、傘を差しかけてくださったのである。あかるく美しい人だった。

 こんな冷たい雨の日に、たいへんな思いをして出掛けるには、出掛けなくてはいけない用事があるのでしょう。たった1人しか育てなかったわたくしなど、子育てはほんと大仕事だと若いママにあらためて感じ入るのである。JRに向かう親子連れは、さりげなく傘をさしかけたまま「送りましょう」と彼女が引き継いでくださった。わたくしは予定通り地下鉄に・・・・。

 見かけた赤ちゃんにふりかえり、やさしい笑みをかがみ込むように注いで行った見知らぬ女の人。わたくしに向けられた、おさなごの疑いを知らぬ天使のように愛くるしいひとみ。「おねがいします、さぁ手を繋いでいただきなさい」と言った若いママの率直で健気なまなざし、さいごにバトンタッチしてくださった美しい人の涼しい視線。今日のバスの相客はとても素敵な人々だった。

 「春なんてもう来ないのではないか」なんてツイ先刻の、暗くうらみがましい気分はいつしか消えていた。春はもう来ている。


 
2012/2月 はじめてのブッフ・ブルギニョン


 昨年末のことですが、思い立って作ってみました。ブルゴーニュ風牛の煮込み料理「ブッフ・ブルギニョン」を!。

 遅い夕食を赤ワインとともに摂りつつ、ぼんやりとボーヌ観光のテレビをみていたら現地の郷土料理ブッフ・ブルギニョンで有名だとの料理店が紹介された。そしてカメラは調理場へ入ったのだ。思わず身をのりだしてしまう。

 大きな肉塊と、丸ごとの玉葱・人参・横真っ二つにされた大ぶりなニンニク。画面にそれらが写ったが、次のシーンは両手に持つ赤ワインを同時にどくどくと大鍋にそそぎ入れるコックさんの姿。 後はもう客席にそれを供する場面。

 (あ、美味しそう!)ブルゴーニュ地方には2度行った事があるけど残念ながら食べたことがない。(そう、ちょうど良い機会だ、作ってみよう)と思い立つ。クリスマスの前々夜、アトリエのアラフォー会員を中心に10名近くの人達が夕食がてら遊びに来る予定。さまざまに年の離れた友人達だとも思っている方々だ。

 孤独な老後をすごすわたくしを悦ばせようと集って下さる友人達はいま1つ、不純な目的をも持つ訪問者だ。美味しいものを楽しもうとの別な期待も持っていそう。たぶん確信をもって言い切れる(笑い)。だのにメニューすらまだ決めていなかった。

 いつもドタンバ主義で直前にならないと動かない怠け者だが、直前ももう目前。明日は買い物に行き、食材を見定めつつメニューを決める予定にしていた。でも今夜1つが決まると他のメインメニューもおのずから決まる。いずれにしろ家庭料理でのもてなしなのだ。「単なる牛肉の赤ワイン煮込み」と思ってトライしよう! 

 有名料理店が手の内をぜんぶ見せないのは当然。料理法調べてみようかしら?とチラットは思ったが面倒だし全く自己流で行こう。頼りとするのはテレビ画面の残像と、わたくしの食いしん坊な勘のみ、という心もとなさ。本格でなくっても美味しければ良いのだから。

 手元にあるスパイスから黒胡椒・クローブ・ローリエなどを選ぶ。画面には出なかったけれど先ず、セロリ、パセリなどの香味野菜が絶対に入っている。それにシチューに似ているからわが家の蜂蜜漬け梅の実も合うにちがいない。7~8粒を隠し味に。約700gのもも肉2本をひたひたにするに、赤ワイン1本半を使用した。もちろん高価なブルゴーニュワインは敬して遠ざけチリ産に。

 当日客人が集まったときまだ煮込み最中だった。テレビでは3時間ぐらい煮込むと言っていたが、充分4時間以上かかったのだ。パーティはいつものように長丁場になり、わたくしはとびきり楽しい来客の会話にも充分加わった。手伝いもして貰う。

 持ち帰るのが重かったけど、クリスマスらしく大きな鶏は昼過ぎにはオーブン皿にスタンバイさせていた。プロバンスで求めた香辛料を効かせ、香味野菜類、例の自家製梅の実をお腹に詰め込み閉じる。外全面にもスパイスして蜂蜜、自家製秘伝オイル?をすり込み待機させていたのをこんがりと焼き上げた。テーブルに供すると、わき上がる歓声がわたくしにエネルギーを与え、つぎの料理へと向かわせる。

 さて、はじめての「ブッフ・ブルギニョン[風]肉料理」は完成した。いい国産肉を選んだのに、ぱさぱさ感が気になり不満感が残ったが皆さんは激賞してくださった。(あの宣伝と入れ込みを目にしていたら褒めないわけにはいきませんよネ)。ごろんと肉塊を中心に、丸ごと入れた玉葱・人参・総て大ぶりにカットする。ソースもたっぷりと注ぎ、はじめてにしては成功、おいしかったとわたくしも思う。

 あの日はひさかたぶり、苺の円形ショートケーキを前日に完成させていた。ブランデーやリキュールをたっぷりとふくませた大人味で・・・・。ワインも会話もお茶も弾み、お開きは例によってタクシータイムになる。人も我もともにたのしんだ良き夜だった。早めのクリスマス会はここちよいプチ聖夜。

 料理は苦にならない性質だけど、あんまり少量では美味しくないものが多い。ひとりで暮らすようになり、特にそう感じている。人とともに美味しいものを食べたい。人にもおいしいものを食べさせてあげたい。そうだ姉弟もよろこばせよう!年開けてそう思いついた。

 過日姉の家に行った折り、それを申し出でた。お互いご老体になったからと、姉弟みんなの要望で近年集うときには中華か懐石料理の出前をたのむのが常となっていたのだ。よろこんでくれた姉とともに車で弟のくる前日、買い出しに出掛ける。

 当日わたくしは奮闘してブッフ・ブルギニョン[風]肉料理と、骨付き鶏ももの香菜スープ仕立て、生き伊勢エビの塩焼きなどをメーンに腕をふるった。これも自分で開発した全8種類ほどの野菜を使ったポタージュスープもたっぷりとつくる。

 延々と飲み、食べ且つしゃべる習慣的にながーい実家の夕食が再現された。2人ともとても喜んでくれたものだ。スパイス、調味料の在庫に物足りなさもあるが、母のため、通いだして10年以上になる勝手知ったる姉の家のお勝手。ナチュラル志向で素材にこだわる姉のため、良い材料を使い自薦名コックも充分作る喜びを得た。作っているうちに満腹してしまうのが難なのだけれど、楽しそうな顔をみる歓びはなによりの大ご馳走だ。

 (あと何回作れるのかしら?)とも思う。気まぐれではあるけど、これからも人を呼ぼう。美味しいものを食べたいとき、わが居場所とする部屋でくつろいで過ごすひとときの豊かさ。わたくしにとっては貴重な刻だ。たべさせて上げたい人の顔がたくさん浮かぶ。そのことの幸せ。


 
2012/1月 今年の目標! 新しきスターを見出そう


 親しい友人Y子とおしゃべりをしていた12月のこと、熱中するほどのスターを永らくわたくしが持っていない事を指摘された。そう言えば映画はなによりも手軽な遊びとして相変わらず良く見ているが、彼または彼女を目当てに、絶対に見逃してはならないと通い詰めるほどのスターを失って久しい。

 わたくしにとっては、よほどの映画ファンでないかぎり若い人はその名すら知らないと思われるフランスの俳優ジェラール・フイリップ、が憧れのスターであり続けている。美貌、演技力、知性、感性、その行動と、すべてが今もひときわ耀くわが永遠のスターの座にある。その思い入れは40年以上まえ、36才の若さで亡くなったことと無縁ではないであろう。ひいき目の甘さもあるでしょうが、 映画史上に残るような名作を達しつつ、頂点にあっての急逝であった。

 若くお金のないわたくしは、彼の映画の多くをロード・ショー館ではなく名画座で観たようにおもう。代表作の一つ(赤と黒)などは、当時ジュリアン・ソレルか、ジュラール・フイリップか、と混然とする素晴らしさであった。と、今も思っている。映画が画面にロマンの香りを漂わせていた善き時代であったあの頃。一時代を画し、彼の生もそれとともに終えたのだ。彼の死後間もなく吹き始めたヌーベル・バーグの嵐を彼は知らない。

 その後、チラチラと彗星は現れた。チラチラと心揺らされることはあったが結婚、子育てに紛れたりもして、わたくしはスターを持たぬままだった。それが80年代半ばから5~6年ほどの間、再び映画館での追っかけをする僥倖?に恵まれたものだ。その事件はY子に未だにいささかの軽蔑を込めた含み笑いを浴びてしまう結果になっている。それも仕方ない。香り立つ貴公子ジェラールとは対照的、やや、いいえ、かなり下品でスキャンダラスな問題児、かのミッキー・ローク様だったから。

 「ナイン・ハーフ」で気に入って、あの下らない「蘭の女」まで見ちやったりしたものだ。うす紫のジャケットを着たりして、セクシーな色男きどりがほんとうに滑稽だった。(トテモ似合ってはいたもんですョ)。付き合わせたY子にはこの件でいまだ頭が上がらない始末。

 スクリーンでの人気が落ちたM・ローク氏、ボクサーになっていた時代があった。たしか90年代始め頃だ。日本での対戦があり、ぴらぴらした豹柄のトランクス姿で登場する彼をテレビで見たときには本当にびっくりした。恥ずかしくもあった、なぜだかしら?・・・・。(笑い)

 数年で飽きたが彼、常に演技力は確かだったと思う。その後も時折り脇役としてチラリと登場していたが、そのつど驚嘆するほどの存在感を示して旧ファンを喜ばせてくれていた。でもこれって、自分の目に狂いはなかった、と威張って自己満足したい世界ですね・・・・。(笑い)

 しかし10数年不遇な時をへて2009年に久々の主演を果たした「ザ・レスラー」は実に見事だった。うらぶれた初老のどさ回りレスラー役に、体と精神を張ったと見受ける演技。かってのファンとしては心地よい感動を覚え、熱いものが込み上げたものだ。

 監督、脚本も第一級。この傑作映画はヴェネチアで金獅子賞を受賞。さらに彼はアカデミー・ 主演男優賞をも得たが、あのジュリアン・ソレルかジュラール・フイリップか!に優るとも劣らぬほどの名演であった。プロレスラーのランディ・ロビンソンとミッキー・ロークが渾然融合していたと思う。映画ファンの歓びなんてこんな風に他愛ないものです。

 映画の話になるとツイ身を乗り出してしまうが、お話したかったのは別のこと。今年は高邁な?目標を持つ事にしたのである。きっかけは先に書いた友人との会話で(わたくしがローク氏以来スターを見失っている。それはあまり良い事ではない、再び誰かスターを持つべきだ。そうしましょう)と笑い合ったのが元だ。

 誰でも生きていれば必ずのように辛い事苦しいことがらに見舞われる。更に、現代はストレスを抱えてしまうのは万人の常、と言えるほどに厳しい時代にあるようだ。そんな中、わたくしは苦しいとき、落ち込んだとき、胸の内を開放して語り合い、笑いに紛らわせ得る友を持っている。逢うのがやすらぎとなるY子のような友に恵まれている。幸いにも。

 Y子と逢った数日後、同様に親しい友Sさんとおしゃべりをしていたら、図らずも話しは同じ方向に向かった。そもそもは昨秋急逝したテノール歌手、サルバトーレ・リチートラが原因だ。彼女は4~5年来ニューヨークへ、ウイーンへと追っかけをするほどに彼のファンだったのである。(その前はずっとロシア人のバリトン歌手一筋だったが、あまりにもな彼の高慢さに心変わりをしたのだ。でも彼の歌や姿はわたくしも好みだったなァ)リチートラ亡き後、なんだか生活の張りが失われたようだと言う。

 生きるにはやはり[まぼろしのスターが必要!]との共感は師走も深いその夜、結論に達した。おたがい来年はスター、新しい恋人を見つけましょうよ。それを目標にしましよう!!と笑って励まし合う。「貴女と違ってわたくしなんて、たったの1000円で選り取り見取り探せるのよっ」とわたくしは妙に威張った。そう、お金の掛かるオペラ歌手と違い、シニア割引1000円で映画を楽しみつつ世界のハンサムを物色できるのだ。なんという贅沢!!

 大人になった頃からは、先ず監督・脚本で映画を選ぶことが多くなっていたけれど、今年から志のために少し次元を落とそう。新しい恋人は先ず美貌本位、見た目の好み本位で選ぶことにしよう。かくして 高邁なる精神をもって?みみっちくも豪勢な目標を得たわたくし、気合いの入った新年?を迎えました。下賎なわたくしには関わらず、皆さまは上等別格な目標、夢をお持ち下さることを!。


 

絵画教室 アトリエ・サガン 150-0011 東京都渋谷区東3-15-5 AYビル5F TEL/FAX:03-3797-5501
E-mail:info2@a-sagan.com
copyright©2002-2005 Atelier Sagan All rights reserved.