先月初旬、国内7連泊の旅をした。考えてみると国内でこんなに長い旅をしたのは始めて。
当初は奥塩原温泉で3連泊の姉弟会のみを予定していた。でも、かねて被災地の現状を自身の目で視ておきたいと言っていた姉と、思いきって2人して足を伸ばすことにしたのであった。
僅かながら母が昨春残したお金、それを姉弟およびその連れ合いをふくむ6名で親睦をつづけるために利用して親睦を深めよう、と皆で決めていた。で、亡くなった昨年は納骨旅行。今年は晩年の父にゆかりのあった奥塩原への旅が起案されたのだ。
おまかせ一任で、幹事はわたくしが引き受けた。みんな年なのでひたすら温泉で休み、美味しい食事、お酒と会話を楽しもう。さらに目玉として、専用露天風呂つきの客室にこだわる。じつはわたくし銭湯文化のない旧満州大連生まれのせいか、いまだに友人、知人とともにお風呂に入れない。入りたくないと言うのが真情だ。もっともこれは単に(ハダカのみっともない自分を晒し得ない、晒したくない、わたくしの狭量さのせいでしょう)とは以前から自覚しているのだけれど。
幹事の特権できめた、渓流に面する部屋のテラスで気ままに浸る露天風呂はなんとも気持ちがよい!。運転手さんつきの小型バスで周辺の半日観光をしたのみ、後は一同ひたすらにのんびり・・・・。そして我が実家の悪癖である長い、ながーい夕食会。義妹達もすっかり馴れっこで到着夜をのぞいた2晩は3時間近くつづく宴会となる。
さすが飲食の量は減っているが、会話はいつ果てるともない。担当の仲居さんに気を遣っての散会のくりかえしとなる始末。母も飲みすぎを案じながらよろこんでくれたに違いない。 夫も共にしたかった、その贅沢温泉旅行も3泊で終了。4日目、那須塩原駅で弟達夫婦とわかれて散会。さて北へ・・・・。
次ぐスケジュールも、わたくしがネット検索でおおまかな予定を立て、まず宿のみは確保していた。岩手も果ての久慈に2泊。かえりの路線は現地での状況次第ときめ、松島でさいごの2泊を決めていた。
八戸までは新幹線の乗り継ぎ。さらにローカル線で目的地久慈へ、夕刻やっと到着する。なるべく普通の生活に触れよう、と選だ宿はすぐに解った。隣接してカフェもひらいている経営者夫婦はとても忙しそう。さっぱりした対応が民宿のようだ。
その宿は復旧のため仕事をしている方々に、会社が宿泊施設として利用しているいるケースが多いみたい。大多数が馴れた長期滞在者のように見受けられる。(洗面所、トイレは各階共用。お風呂は交代制、札を入り口にさげて入って下さい)と説明をうける。
カフェでコーヒーをのみ部屋に落ち着くともう食事時間だ。食堂(カフェ)での夕食は素朴だが、お魚の素材がよく、量も多い。ご飯は食堂テーブルに電気釜ごと用意されていた。お代わり自由らしい。
お風呂には2人ともさすがに入れない、落ち着かなくって不安なのだ。なるべくありのままの姿の現地を見学しようと思い決めた宿。なにしろ価格だって昨夜までの宿の1/3以下なのだ。でも寝具はとても清潔でふんわりとしていた。
翌朝、行動開始で駅へ。4月1日から三陸リアス鉄道が再開されていた。と言ってもバスによる代行部分もあり、全開通は2014年になるとのこと。まだまだ厳しい未来であることが実感される。わたくし達は田野畑・田老などの被災地まで足をのばすことにした。
三陸リアス鉄道に乗るのは始めて。途中沿線はリアス地特有の景勝がつづき目を奪われるよう。そして田野畑・田老地区など災害の跡地から海をのぞむと、(世は総てこともなき)かに天然の美が展望されるのであった。被災地はこんなにも美しい地だったのだ。無残な地に立ち、うらはらな残酷さが身にしみる。
代行バスとの乗り換え駅で声を掛けて下さった60代男性は、4年前まで某電気工事会社の社員として東京で働いてらしたとのこと。災害時や今の暮らしを、そして列車の中では「あのあたりの田んぼがみんな海水を被ってしまいダメになった」などと説明をして下さる。こころ優しい方だった。
田老では姉と日本一を誇っていた長い防波堤をただ、ただ歩く。行きにすれちがったのは老いた男性と、欧米人2人連れにその案内者らしい女性。後者とは互いにあいさつを交わしたが、前者には目礼のみ。防波堤の上でやすみ、周辺を観察して同じ道を元へたどる。
こんどはまだ子供っぽさの残る制服姿の男子中学生と行き交う。目礼も会釈もできない。この防波堤は、今現在残る建物や道路への近道ではあり得ない。[ここを通るのみが目的である]はずだ。先の老人も、この子もきっと目的を持ってひとりで来られたのだ。その目的が察せられて声はかけられない。
翌朝久慈からバスで二戸に出、盛岡~仙台~松島へのルートを取る。昨日三陸鉄道の代行バスが通った山間の地も、まだところどころ雪が残り木々の気配がうつくしかったが、二戸への山あいを抜ける道にはさらに多い残雪だ。響き合うような、こんもりとした樹林にまだ春は見えない。気高いまでのしじまが煙るように山林に漂い、不意に清冽にほとばしる渓流が現れる。
ほんの1時間強の区間だが山中の停車駅は少なく、岩手が生んだ人、宮沢賢治の物語が沁み出るように心に呼び覚まされた。こんな地から生まれた言霊だったのだ。あれらの物語は・・・・[岩手は美しい。海も山も!!]
2人とも立派な?後期高齢者だ。それを言い訳にして、松島では絶好の眺望を謳っていた温泉宿を予約していた。被災地の旅はやはりとても疲れてしまうものだ。着日は夕方だったし、3日ぶりの露天風呂(贅沢はつづけませんでした。大浴場です)でまず休む。
夕食はまたもや海山の幸が豪勢にならぶ。一応よろこび、ご当地日本酒も幾種かたしなむ。1泊して翌日、朝食のあと横になったら午後まで寝込んでしまった。2人ともに・・・・。
せっかくの日本3景、あわてて最終遊覧船に乗り(3時半発)湾の内外一周に参加した。大小無数の島々が点在し、それが天然の防波堤となり周辺が守られたことが目の当たり理解できる。それにしても宿からの眺望をふくめ松島はすばらしい。
宿での夕食時、姉に「日本3景のうちどこが一番と思う?」と聞かれた。宮島、天橋立にはお互い、いずれも2~3回行っている。わたくし松島ははじめて、姉はむかし、高校教師時代に修学旅行の引率で1度来たとのこと。(それはご愁傷さま!お疲れさま!)
迷わず答えた。「ここが一番だと思うわ」そう言い切れるほどに、緑なす島々の浮かぶ凪の海は美しい。3・11の記憶のせいもあるのかしら?繊細優美な日本的美しさにくわえて、島々を望む眺望に男性的強さと、女性的勁さがどこか儚く無常に映るのであった。紅く塗られた長い橋が架かる島にはとうとう行かなかったけれど。
余談だけど、(今後日本国内連泊旅行をすることがあったら、絶対ホテルを主にしてマイペースな食事を摂ろう)と痛感したものだ。朝夕のご馳走責めは4日目くらいから負担となり、それでも目前にやれ、岩手牛・ご当地マグロです。あるいはこちら、仙台牛タン・蟹・海老・です。などと供されると、あさましくお腹に収めようと頑張ってしまうのであった。今回の旅疲れには胃もたれもあったと、とても反省かつ恥じてもいる。
最終日午前10時半、松島駅に荷をあずけるとやはり途中バス代行を伴うJRで石巻市に向かう。東松島あたりから無残に残された駅舎跡など、被害の跡が目立ってくる。辿りついた石巻では「タクシーより観光タクシーを」との観光案内所、職員の方の助言に従うことにした。
50前位の運転手さんは要所要所を説明しつつ、短い持ち時間内で、最低見るべき場所、知りたかった事を的確に廻り、語って下さる。彼自身の失われた家の跡地も見せてもらい、妻、母と2階でやり過ごしたその夜の恐怖も聞かせてもらう。
かってその直線の長さで東洋一を誇っていた、との船着き場にも立った。そこであの日の体験やその後を聞いていると、田老の堤防に立った時と同じように、その日そのときの地獄図が脳裡に浮かんでくる。すると頬がヒクヒクと痙攣してきて、それは中々止まらない。わたくしは頭をふって想像を追いやるのだった。閉じこめるのであった。
どうしてもそうしてしまう。申し訳ないが、今のわたくしはそうせざるを得ないのだ。取り込むのが怖くて、辛くて・・・・。人はこうして直面視を避け、忘れようとするのだと身を持って知る。(視たくないものは視ない)現地にまで行ってこの始末。
運転手さんは現在仮設住宅住まいとのことであったが、(先の案内所の40代女性職員もそう言ってらした)中心地にちかい、500軒の仮設集合住宅も回っていただく。ここは地理的にも建物の材料でも(プレハブであった。トタンよりずっと凌ぎやすいらしい)人気の施設だそうだが、1軒に窓は1つのみ。2間つづきにキッチン、浴室と縦1列の長屋作りとのこと。どこもそのような造作になっているそうだ。 500所帯集うにしては静か、気配が静まっている。
今度の旅は心底つかれて帰ってきた。帰宅後2日間、ろくに食事も摂れなかったし、好きなワインすら2日飲めなかった。以前よく半月以上も外国を旅したものだが、今度ほど疲れはしなかった。原因はいろいろであったと思う。後半4泊は物見遊山気分での計画ではなかった。だがこの目で見ようと行ったのに、やはり視ることを避ける自分を甘やかしてしまう。その自分を又も視てしまう。その繰り返し。イロイロな意味で自身の心身の老いが自覚もさせられた。深く。
だが、あの地で出会ったたくさんの方々。生きて、働いて堂々と体験をかたり、「知って下さる事、来て下さる事が嬉しい。応援してくださる事になる」と語っていた人々は、わたくしにもこの上ない力を与えて下さったと感じている。相変わらずへこんでしまう時に、北国で働いていたたくさんの人々のお顔が浮かぶ。申し訳ないけど今のわたくしは、あの人々にかえって励まされているのである。
駅で、旅館で、売店で、案内所で、その他それぞれの職場で出会った人々は立派だった。そのたち振る舞いは、けっして愚痴っぽくない。おおくの方々が健気にあかるく働いておられた。人が、生きるために生きる姿を美しいと思い、わが心まで少し清まりました。北国のあの人々に深い尊敬を捧げている。あれからずーっと。
でも忘れえぬ気掛かりも残っている。あの日々、折に触れひしひしと感じた、多くの(気配なき人々)の存在だ。仕事口もなく、家も家族も失い、表に出る事なく、出る気力も失った多くの人々。見えないその人々の存在が感じられてならなかった。
それでなくっても厳しい今の時代に、弱者への坂をころがり落ちていったたくさんの人々。今なお声も上げ得ず、ひっそりと日々をしのぐ弱い人、弱くなってしまったみなさんが確かに存在している。
お金がいちばん役に立つに違いない。ミモフタモナイがやはりそう思う。せめてお金を何とかしてあげなければ!愚かで狡い老人であるわたくしの頭に浮かぶのはこんな、なんの役にもたたない考えでしかない。だから、せめてささやかな寄金をしよう。今度は日赤は止そうと思う。具体的に的を絞りたいものだ。小さな事だが、それを今調べている。
さいごまで付き合って読んで下さった方、ありがとうございます。個人的な感慨もふかく、ツイツイ書き連ねてしまいました。