Atelier Sagan
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高橋さんの部屋 おでかけエッセイ 展評
キヨエッセイ/2007
一月に一度、つれづれなるままに書きとめられた高橋さんの文章は
笑いあり、考えさせられたり。みなさんの清涼剤になれたら・・・




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2008/4月 その時が来た

                               
 先月母は104才を迎えた。毎月姉と共に、あずけている介護ホームから3泊で姉の家に母を連れ帰っていたのだが、今回はこども4名総員が姉の家につどい誕生を祝った。弟たちが帰り、母をs苑に送ると、いつものようにわたくしが更に2泊母の部屋ですごして帰宅した。母の自立が心許なくなり出してからもう8年、S苑のお世話になりだして5年。夫とサガン、スタッフの理解と協力あってこそ続けられた毎月行事であった。

 そして帰宅した翌朝の事である、母が部屋で転んでいたと主任さんからの連絡が入った。「いつも高橋さんの帰宅後は興奮されていて、良く動かれるから気をつけることにしていたのに」と自分を責めた苦しげな報告だった。

 気持ちは本当に嬉しいが「いいえ、心も体もあんなによろよろと危なげな母を、いつも自室内で自由に過ごさせ、見守って頂いた。おかげで人間らし生活を続けて来られたんです。何時かは来るそのときが来たに過ぎない。母がもっとも手の掛かる入居者であることはこども一同身を以て理解してたことだから」と述べ病院での診察結果を待つことにした。そして正午ごろ、最悪の結果だったと大腿骨骨折の知らせを受けたのであった。

 ためらっていた姉に、行けるときにいってらっしゃいと中国の奥地行きを進め、旅立ったその日の事であった。上の弟は病後でとても看護はできないし、下の弟も他医が入院中で自院の診察担当を外すわけにはいかない。入院手続きほか急を要する。ともかくわたくしは大阪へとんぼ帰りをした。

 夜7時すぎ病室に入ったらs苑の主任さんは母のそばに付いて待っていて下さった。彼女が「来られるまでついています」と言って下さったことでその間どれほどに心強かったことか・・・。 彼女は母の言葉を家族にお伝えしておきたいと前置きをすると、母がずっと自室に帰りたいと言っていたこと、さらに母の言葉を借りると最後はs苑で死にたいと言っていたそうである。涙をにじませて伝えてくれる主任さんに深い謝意をのべて、担当医の説明をともに聞いて貰うことにした。

 1つ、手術を受け順当な回復をみれば、又いままでのような生活に戻れる可能性が大きい。ただしなにぶんにも高齢であるから術前、中、後いかなる事態が生ずるかは分からない(当方も勿論それは日常の心得となっている。さよならの都度、これが最後かも?と母をみつめるのだ)検査結果では手術を受けられる状態にある。術後は翌日から車いすに乗って頂く。

 2つ、手術を受けない場合は自然癒着を待つわけで、時が掛かり必ず寝たきりになってしまう。また、痛みがのこることになる。

 手術日の確保のため、翌朝までの返答が必要だった。弟と電話で相談する。意見はやはり一致した。手術をうけ今までの状態にもどるのは奇跡的にも思えるが、もし回復した場合、さらにs苑に負担を掛けることが予想される。心苦しいことだ。手術うけるのは初めてだが、いままでに母は奇跡的な回復を2度も果たしている。しかし受けずに寝たきりの道を行き、さらに足の痛みが残るのはむごいことだ。母が正気であったならやはり手術を受けると言うであろう。(手術をして貰おう!)が結論だった。

 翌朝S苑のスタッフに了解を求めた。暖かく、頼もしい同意を受ける事が出来て胸に沁みる。
姉の負担を見かねて母を預けることにした時、いろいろ見学し、検討した末に選んだ介護付き有料ホームだった。s苑にして本当に良かった!仕事とは言え、介護の現場はどんなに大変か!!年ごとに手の掛かる母を通して、また入居者全般を通してわたくしもこの5年間でよく理解してきたつもりだ。プロ意識に加えてハート・志といったものがなくてはとても続けて行けない厳しい世界だと感じている。

 医局に受術の申し出でを済ませ、正気と落ち着きをだいぶ取り戻していた母にも2つある選択の道を丁寧に説明する。「手術を受ける」はっきりとした意思表示だった。ほっとする。「だから体力をつけないと、すこしでもご飯を食べましょうね」激励に応えようと頑張るのが痛ましい。

 日曜日弟が来てくれた、やはり嬉しく心強い。夜なんとしたことか、と言うか相変わらずのドジを踏んでしまった。後を弟に託して新大阪駅に向かう車中で時刻表を見誤り、最終便に乗り遅れたと思い込んだのだ。弟に同じホテルの一部屋を確保してもらうようtelを済ませると、翌日予定の出勤日の振り替えを講師に依頼する。夫にも詫びのtelがもちろん必要だ。いずれも無事おわった。(翌日勘違いが判明)

 そうと決まると開き直り、立ち直るのがわたくしの長所or欠点である。幾日かぶりのゆっくりとした夕食を弟にご馳走になる。そのなかで昼の言葉を反芻して言われた。(翌夜姉は帰国し3日後には手術予定だが、姉はむろん、わたくしも母の看護にとんぼ返りの繰り返しなど、無理をしないように)との注意であった。母のためにわれわれの老体、そしてその家族が弱ってしまうのは本末転倒だ。みんなこれまでずいぶん頑張ってきた。けれどもう、今までのように奇跡は望むまいとの趣旨なのだ。
 
 そう、来るべき、その時が来たにすぎないのだ。よくぞこれまで来たものだ、とも思う。なかでも一番大変なのは、やはり日々ひたすらに(自分の事は自分で)と本能と化した自立心で頑張っている母本人であろう。でも深刻に考えてしまってははいけない。わが家族のこの8年は、どこにでもある、誰もが味わう生活のひとこまに過ぎない。人は辛いとき、憂鬱にあるときどうしても自己とその周辺に想いが囚われてしまい勝ちだ。けれどこんな時代だ。少し目を転じると、辛いのは、淋しいのはほとんどすべての人々なのだ。老人が生き辛いのも事実だが、若者も長い未来が厳しさに晒されているのが現実だ。もの思う人も思わざる人も、ほとんど統べての人々が痛みを抱えていると言って良いであろう。その中にあってすこしでも客観的、俯瞰的にありたいものだ。そう、まずは自身と夫の体力維持が基本だ。そして弟に、白内障の手術日を控えた夫が術後も落ち着くまでは家を離れないことに同意する。

 そんな事があってもう2週間。母は無事手術を乗り越えた。術後も順調で信じられないことに104才の人に対してもリハビリは翌日から予定通りはじまったのである。術後の早朝、寝ていることは機能を衰えさせる。とくに肺炎などを起こす怖れがあるからと、痛がる母を男性の介護士が実に上手にあっと言う間に抱きかかえて車椅子に乗せてくれたそうだ。トイレも抱えて座らせてもらうそう。姉から聞き及んだが、精神科医の弟も現代の医療現場におどろきを隠せない。

 民間会社の出張介護も利用して乗り切っているが、もう退院の予定日も決まった。暖かく退院を待ってくださるs苑に帰るのだが、あらたな覚悟も必要なようだ。すでに大分頭の衰ている母は、自身の立場、能力をわきまえることが出来ない。以前同様本能的に排泄、歯磨き、洗顔その他を自身で行おうとするであろう。そのプライドこそが今まで母を支えて来た原動力だったのだが・・・。

 なまじリハビリによって室内での自由な行動を起こせるようになったら4-6時中目の離せない事になる。われわれこども達で常なる介護はできないし、膨大な費用を要するフルタイム出張介護なんてとても考えられない。するとs苑スタッフの負担増加はいかばかりか?介護付き有料ホームとは言え、常なる見守りが無理なのは当然である。したがって再々度起こりうる事故の心配、弊害!あぁ

 母は昔からけっして人付き合いの上手な人ではない。今も心身の弱った他の入居者の方々が集うルームでの団らんなどに加わろうとはしない。ひとり部屋に過ごすほうを好むのである。これは母の個性であるから致し方ない。ホームで長い時間をともに過ごしたいと思える友に巡り会えたらほんとうに幸せなのだが、わたくし自身の問題として考えても、これはほとんど僥倖ともいえる幸運であろう想像する。

 と言うわけであらたな悩みを抱えてしまった。今までも率直を心掛けてきたが、S苑スタッフの方々と肚を割った、本音での相談が早々に必要だと姉弟で話し合っている。そして実はそのことに心悩み、痛む日々でもある。しかし前記したようにこの悩みはほんの小さい悩みでもあるとも考えるのである。

 むかし、そう母がまだ60代後半のころ、たしかTBSラジオ局の投稿に応募して入選したことがあった。(老後はこども達に凭り掛かりたくない、そんな人々のための軽費な老人ホームの設立を国に希む)と言った趣旨の文だったと記憶している。その母は心懸け良くせっせと貯金もしていた。S苑の入居金はそのお金で支払った。以来5年、その資金と弟からの援助で来たが、無くなったらこども達で持とうと決めている。こんな時代である、まずは経済的心配が無いことをなによりの幸せと思わねばいけないであろう。心懸けの悪いわたくしはしみじみとそれを感謝する。

 さくらの季節、華やぎのなかに憂いを見るのは毎年の習わし。満開のさくらの花が秘めている死や滅びの予感。凋落の美。それゆえにこそ、深くこころ惹かれるのであろう。永遠なるものなんて何処にもない。すべては、たゆたいつつ流れ行き、去るのである。

 母のうつくしかった時、強かった時、楽しかった時、それはわたくしの心にいまも輝きをもってよみがえる。「そう、憶えていますよお母さん。みんなもきっとそうですよ」窓外に望む遠い春霞のさくら並木に向かってわたくしは語りかけてみる。


2008/3月 ある日、お茶の水で

 お茶の水駅前の I眼科病院、夫と姉が相次いで白内障の手術を受けることになり、付き添い役としてこの処すっかりおなじみの場所となった。

 高名な病院だそうだが、たしかに案内の手順、設備など目を患う者に対し親切に対応している。とりわけ嬉しいのは、高台にあるビルの19〜21階を占める、受付、待合室の窓すべてが大きな一枚板のガラスで外光をふんだんに取り入れていることだ。患者とその周辺なんてみな心配と憂鬱をかかえているものだ。だからこの開かれた眺望は何よりのもてなしに思える。

 その日も、術前検査に長い時間が懸かっている姉を待ちつつ、わたくしは窓辺に立っていた。ひときわ目立つ、赤いかわいらしい鳥居と神社は神田明神。(そう言えばまだ行ったことがない。近日姉がホテルに滞在して手術を受ける合間にいっしょに行ってみよう) あれは湯島聖堂、(40年前、父の49日の法事をしたあの頃はもっと駅近くから森に入っていったように思う。ずっと大きな森に囲まれていたと記憶していたけれど?) そして遠く都の果てまでをもきょろきょろと飽きることなく見晴るかす。

 突然、音が響いた。ビルの暖房機の作動音が何かの弾みで壁に伝わったという感じだった。さっきから、ちょっと離れて同じように外を眺めていた少年と驚いて顔を見合わせる。浅黒くすこやかな頬に、黒く丸い瞳がきょとんと少しとまどってている。「びっくりしたわねー、でも大丈夫よ」それをきっかけに、少年と「あれは東京ドーム。違うわ、あれは武道館なの。ほら東京タワーが見えるわね」などとお喋りする。
 
 何年生?と尋ね、答えかける少年に「待って、当てて見るわ。 さぁー3年生かな?」と言うと「4年生」と照れつつもちょっと得意げだ。(3−4年生だと思ったので3年生と言っておいてよかった)

 少年は手にしていたものを窓辺に置き、だまってわたくしの前に寄せて来た。20cmほどのミニチュアーの電車だ。孫もいないのでこんなものを目にするのは久しぶり、「あら、山手線ね」彼がちょっとさわるとドアーが開き電車内の乗客が窓辺に姿を現す。「まァ、すごいのね」わたくしが喜んだら彼は新たに2つを取り出した。京浜線とあずさ号だ。それもじっくり拝見する。だって本当に面白いのだもの。

 次に取り出してくれたのはスナップ写真。みんな電車、汽車の類、すべて自分で撮ったのだそう。日にち、場所、車種が少年の手で記されている。市川に住んでいて総武線で来たこと、余り遠くない他駅での写真はお父さんに連れて行って貰ったことも有るけど、ほとんど一人で行って撮ったとのこと。とつとつと話してくれる。まだまだザックにはお宝が詰まっているみたい、つねに持ち歩いているようだ。

 ぽつり、ぽつり、 聞かせてくれた小さな鉄道マニアの知識は大したものだった。わたくしも自身がそそられていた新聞記事を聞かせる。「3月の初めまで北海道の網走から釧路まで、SLが走っているのよ。その列車ではね、ストーブを燃やしていて、サービスにするめを焼いてくれたりするんですってよ!」「3月のいつまで?」少年の黒い瞳がかがやく。しまった、よけいな火をつけたようだ。「遠いからみんな中々いけないわね、いつかお父さんに連れて行って貰えたらいいわね」

 急に少年が聞いてきた。「新宿はどこ?」指差して教えると熱心に彼方を求める瞳。「あずさ」が発ち、沢山な路線が交差する駅は彼のあこがれを誘う地なのだろう。行きたいらしい、よーく分かる。わたくしも連れて廻って上げたい気分だ。そのうち少年のお母さんが検査を終えて出て来られた。

 今時のことだ、見知らぬ人と話していて心配を掛けてもいけない、わたくしはすこし微笑んで会釈をした。硬い表情のまま会釈を返すと少年に、出していた電車類を仕舞うようにうながす。その余裕のなさをほぐしたくて、わたくしは言った「鉄道のことほんとに良く知っているんですね。びっくりしました」「汽車のことばっかり!」言い捨てて若いおかあさんはなおも少年を急き立てる。ふり返り、はにかんだ小声でさよならを言った丸く黒い瞳を小さく手を振って見送った。

 中高年患者の多い眼科病院で、30代前半と見える若いお母さんだった。市川からわざわざ高名な病院をおとずれるのは重い眼疾を抱えているのかもしれない。検査の結果でも悪かったのかしら?。あの余裕のなさは(自身の問題で手一杯)多分そんなところにあるのでしょうと推察したりする。
  
 はにかんだ黒い瞳のかがやきが後に残った。眼下に神田川沿い、御茶ノ水駅プラットホームに立つ人々が小さい。(あの子のお母さんの病気、どうかはやく良くなりますように!)いつしか人群のなかに母子の姿を求めつつ独りごちるのだった。



2008/2月 ある日、蒲田で

                     
 ある日、思い立って手工芸材料専門のショップ、yuzawaya蒲田店まで出掛けた。目的の洋裁材料を購入した後も、うろうろと幾つもの広い館内を歩き回ってしまう。ふだん近場の渋谷で済ませているから、ここに来たのは10年ぶりにもなるかしら?。世の激しい移り同様、手仕事の材料もずいぶんと変化している。便利、豊富な素材がもの珍しく、興味はつきない。ついでに、わたくし自身は描かないけれど職業柄、画材も見て帰ろうと思っていたが、気がつくともう2時半に近い。3時間以上もうろついていたことになる。どうりで疲れているし、おなかも空いてしまった。引き上げることにしよう。

 外はひどく寒かった、なにか暖かいものを食べたい。一人でこの手のお店に入るのは何となく気が張るものだが、駅ちかくの中華店にした。席につき、ホットして煙草を吸うと背後の会話が飛び込んできた。やや耳障りなお説教口調である。小声で話す女性を相手に「しっかりするんだよッ」みたいなことを励まし、叱りつけている模様だ。すこし嗄れたその声は、50代の世慣れたおじさん風。はじめ、職場の部下にお説教を垂れている、やかましやの上司かしら?と思った。(イヤな席についてしまった) でも、なにか違う。わたくしのチャーシュウ麺が届いたとき、思わずチラリとふり返った。二人ともに女性であった。

 食べている間中ややドスの効いた声と、ボソボソ声の会話はとぎれない。多摩川で電車を目蒲線にのりかえて蒲田に向かった車中から、気のせいかとも思う微妙に変わった空気。どこか生な、生活感の漂いを感じていた。そこへもってこの会話。わたくしの耳は、すこし離れた後部席に向かっておおきく開かれてしまう。

 「家のちかくの、なんとか屋さんの娘さん。看護士なんだけどさぁ、この間みたんだよ、男と一緒のところ。どこそこで(またも聞き取れず)それがこんなにして歩いてるんだよ(残念、見えず)45度だよぅ。声掛けられなかったよぅ」相手ホゥーと驚きボソボソ。「27年生まれだよ。あたしたちと同い年なんだよ!」相手、さらに感嘆しボソボソ。わたくしも素早く計算する。(するとご近所の看護士さんは55才ってわけだ。それにしても45度ってなにかしら?)こちらにも素早い推測をかき巡らせねばならない。

 「45度だよー45度。あんた出来るぅ?」男の人に捨てられたか何かで孤独ウツに陥っている、と推察される気の毒な相談相手は、ため息まじりで答える。「出来ないよー」「そうだろう。みんな淋しいんだよ。みんな。」長い会話に結論が出た。失意女性もすこし元気が戻ったよう、やがてそろって店を出て行く。(うしろ姿の時雨れて行くか)思わず山頭火の句を胸につぶやきつっ見送ったわたくし。なぜか(45度)が生々しく耳に残る。

 こちらも何となくめげる気分なので映画を一本見て帰りたい。なにしろここは舞台、映画で名高い、つかこうへい作(蒲田行進曲)の町、もと松竹蒲田である。映画館があるはず、あるべきだ。なくてはならないッ。
 
 中華店で教えてもらった昔ながらの長いアーケード 商店街を行くと、はずれのスーパーの2階にたしかにあった。さすが、掛かっていたのは松竹映画だ。だが、どうもその映画「篤姫」を観る気にならない。けっして邦画をないがしろにはしていないつもり。 衰退していた邦画もここの所ずいぶん質が良くなったし、映画ファンの一人としては、大げさに言うと日本映画振興のためにも、もっと見るべきだとはおもっているのだが・・・。 
 
 夫の中学時代からの友人に蒲田そだちの人がいた。親から継いだ町工場の社長だったが、あの人も親身な人だった。すでに亡くなった人をひさしぶりに思い出しつつ、雑ぱくだが生きの良い街をあとにした。


2008/1月 ことしは過激主義で行こう

                     
 身近に接した2〜3の出来事がきっかけだった。昨年わたくしは心ひそかに思っていたものだ。(身近な老齢者には過激精神で行こう!) たぶんわたくしを知る多くの方々が思われるであろう。エッ! いい加減にしてよ、もう充分に過激なのに!と・・・。でも、年改まれどやはりこの考えは変わっていない。

 昭和も3-40年代の頃「仲良きことは美しき哉」とカボチャの絵などと共に書かれた武者小路実篤さんの色紙が人々に愛されたものだ。デパート、書店などでお茶の間用かしら?良く売られていたものだった。

 でもあれは、人生50年と言われた時代にあってこそ素朴に心に届く言葉であった。80〜90年となった今、複雑化した社会の厳しさは比べようもなく、人生はひたすらに永い。夫婦の持ち時間も驚異的に延長した。これを持ちこたえるのもなかなかに大変な仕事だ。家庭内ぬるま湯の長びたりは人の脳をダメにしてしまうと考えられる。大切なのはクオリティーオブライフだ。

 人が、とくに老いた者同士がいたわり愛う姿は美しい・・・とはわたくしも思う。いがみあう老人たちなんてホントおぞましい。 でもわが家の平和、すなわち我が身の平和のみがひたすらな信条となって守り合う老人達がなんと多いことか!わたくしみたいな根っからの軽はずみ者をのぞき、大半の老人が守りの姿勢にのみ廻ってしまうようだ。

 もともと薄情なのであろう。「人は人。それぞれの好む生き方がある」と他人の生き方に関してわたくしは冷淡に接してきた。自身の自我が強いのを意識しているので、ひとさまの自我も大切にしたいとの信条もあったのだ。

 それに、むかしから一軒の家庭は小さな国家みたいなものと考えている。よその国の文化、思想、宗教は尊重せねばならない。悪意のある攻撃やひどい迷惑を被らないかぎり、たとえ肉親間であろうと他国の政治に口を挟むのは控えねばならないとも思っていた。

 でも夫婦そろって仲良く自国安泰、富蓄維持のみに専念していると、それでなくとも視野狭窄に陥りがちな高齢者は周辺の都合、係わり方などにまったく盲いてしまうのではないかしら? かって決して愚かでもなかった夫婦が、わたくしからみれば家族以外の他者の立場にまったく想像力を失い、かつ吝嗇をもって身を守る全盲状態に陥ってしまっている・・・と嘆じさせる出来事が続いた。

  お手々つないで仲良くボケ街道をまっしぐらー なんて真っ平だ。我が家庭を愛しすぎると、ブッシュ氏のナショナリズム同様他国の迷惑を省みること無く、自国の懐はあたたかいのに国際的責務にはなりふり構わぬ吝嗇になる。と思うわたくしは冒頭の考えに達したのである。

 後続する団塊世代の夫婦は、まだまだ夫唱婦随が美徳とされたわたくし達の世代と異なり、友達感覚で切磋琢磨する習慣が育っているかも?と期待しているが、わたくしの世代では一般的に家庭内は事なかれ主義な平和を求める家々が多かったと思う。

 考えるに、わたくし達夫婦はむろん、世の大半のカップルはたいして明晰な頭脳や品格ある人柄に恵まれているわけではない。俗に言う(割れ鍋に綴じ蓋)である。もちろん、いぃえわが家は(ブロンズ鍋に一枚板の蓋です )と胸を張る方も居られると思う。がこれはほんの私見である。そんな風にたいして賢くもない凡夫・凡婦が向かい合い、心を揃えて、家庭の幸福に専念しているとドンドン愚かになってしまうこと必定だ。太宰治の言葉(家庭の幸福は諸悪の根源)が低い次元で実感させられることしきり、の昨年だったのである。

 老夫婦が体具合をいたわり合い、なぐさめ励まし合うのはたしかに美しい。でも精神は過激なほどに刺激し合いたいものだ。脳が衰えたからと言って甘やかしたくない。甘やかされたくもない。年老いた脳に蓄積された良きことも多々あるはずだ。若き日に読んだ本を再読して、自分がいかに浅薄な読みをしてきたか!叡智、興趣の尽きせぬ深淵が潜んでいたことに気づくなんてことは日常的だ。それは読書のみではない。日々出会う事柄に対するこれも日常的な感想だ。

  人生の質についての考察として、これは偏見かもしれない。思い上がった冒涜的考えであるか?とも顧みられるが、わたくしとしてはどうしても、脳が働くなくなった人生。理性、知性を失った人生は耐え難く思える。身近な人のソレがドンドン衰え行くのを見つめるのも苦しい。老いた脳は 瞬発力こそ遅れ、萎縮に向かっているのも確かだけれど、幸い脳の仕組み、はたらきについてはまだまだ解き明かされていないらしい。

 科学者が研究を重ねている現在、もしかしたら脳萎縮も遅らせ、防ぎ得る時代が近いかもしれない。あるいは良薬もあらわれるかもしれない(例によっての楽観主義です。笑い)

 さぁ、その日を期待して我が、割れ・綴じ夫婦は今年もさらに熾烈なバトルを展開させよう!!姉弟、友人にも議論を吹っかけたり、吹っかけられたりしよう。幸いわたくしの周辺では昔から大人しくないわたくしに馴れている。キットきびしい対抗に出合うことでしょう。自身の首を絞める結果も予測せねばなるまい。でも「各々方ご覚悟召されい」そうむざむざ安らかに老いさせては上げませんヨッ!!



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