Atelier Sagan
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高橋さんの部屋 おでかけエッセイ 展評
キヨエッセイ/2007
一月に一度、つれづれなるままに書きとめられた高橋さんの文章は
笑いあり、考えさせられたり。みなさんの清涼剤になれたら・・・




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2007/12月 魔女と暮らして

                     
  もう20年以上になると思う、なぜか魔女の人形を好んで集めている。だいたいは旅先で求めたものだが別に心地よい置物ではないから、もういい加減にしようとは思っているのだが・・・。

 なんといっても一番のお気に入りはプラハの魔女、チェコらしく操り人形(マリオネット)だ。体長30センチほどの彼女、細部にいたるまでじつに魔女的容姿を整えて出来がいい。一見して気に入り、ためらうことなく手にいれた。だがこの魔女小さいのだけれど、マリオネットなので針がね、糸などの操作用具が邪魔になり、結構かさばってしまう。持ち帰りに苦労してしまったものだった。

 あれはたしか1994年だった。ソ連から解放されてまだ年月浅いあのころ、いまだ騒然たる中欧の国々だった。観光客としては至る所に不穏な気配が見られたものである。

 起点にしたフランクフルトの甥の家から、最低限の荷物で軽装を心懸けベルリンに入った。その後はドレスデンを経てプラハへ。さらにウイーン経由ブタペスト。またウイーンに戻り、と半月あまりの旅だったと記憶する。 道連れは、わたくし同様はなはだ気まぐれ、身勝手。関心と無関心のブレのひどさが相通ずる、つまり欠点が似たもの同士である野村講師との女二人旅だった。

 プラハからブダペストへ移動の際、当時はウイーンを経由せなばならなかった。ウイーン発のオリエント・エキスプレスを称する列車である。あのアガサ・クリスティの華麗な世界をほんの少しは期待していたっけ・・・ただし実情はごく普通の食堂車で殺風景なサービスのコーヒーを飲み、虚しくお茶を濁すのみだったのだが・・・。

 夕刻、ブダペスト入りした。プラットホームから高い車両の降り口で、スーツケースから突き出した魔女の針がねがわたくしの服に引っ掛かてしまった。危なっかしくてモタモタしていた時だった。後部から出て来た男性が感じ良く手を差し延べて荷物を降ろしてくれる。お礼を言ったらにこやかな笑顔のお返しをうけた。

 さっそくこの国のお金が必要だ、駅構内の両替所に向かう。ところがジャンパーの内ポケットに入れてあったはずのお財布が消えてしまっていた。大切な日本円とカードを失いぼうぜんとなってしまう。

けれど、何はさておき現金は必要だ。肌身に付けていた取っておきのお金から換金を済ませる他なかった。失意のままにホームでキャッチされたマダムの言葉を信じて、彼女が持っていると言うアパートメントに落ち着いた。

 余談だが中心地にあったその部屋は、ベットがダブるであったことを除くと、広くて落ち着きもあり居心地は悪くない。当時年金暮らしの人達は物価騰貴で暮らしが大変だったらしい。プラハ、ブダペストともに年配者が手持ちのアパートメント、あるいは住居の一部を貸すために客をキャッチするべく、みずから駅頭に出向いていたものだ。

 案内を済ませたマダムは、ひどいなまりの英語ですこし好奇心をにじませて、わたくし達にカップルか?と聞いてきた。とたんに野村氏がNo!No!と顔を顰めて否定している。可笑しかった。「失礼しちゃうわ、なにもあんなに厭そうに否定しなくってもいいんじゃないかしら」と笑い。

 それはさて置き、落ち着いて考えると、食堂車での支払い後はコンパトーメンとに戻り、出歩くこともなかった。のんきなわたくしも旅先、特にあの時期物騒だった国々ではしっかりと内ポケットにお財布をしまい込んでいた。魔女に気を取られていたあの一瞬が魔のひとときだったとしか思えない。あの男性、失礼だけれど「一等車の乗客らしくない服装だな?」と思ったものだった。「多分清掃かなにかの作業員でしょう」と・・・。 そうではなかったのである。着いた列車に「なにか収穫無いかなー」と乗り込んで来た手品師だったのだ。

 道連れと午前中に分かれると、夜のホテルで顔を合わすまで別行動なんてこともある、気ままな旅だった。だが二人して共に苦難や言いがかり的迫害に対抗するなんてことも多々あった。とにかく騒然と刺激的、かつ漫然とした旅でもあった。毎夜ベッドに入ると、日中のあれこれ、われわれのドジな対応を思い出してはおたがいにお腹を抱えて笑いあったものだった。たのしく、滑稽な旅でもあった。

 駅頭のキャッチャーの言葉(リビング・風呂つきのベッドルーム)に釣られて泊まったら、家主である女流画家の、ドイツ表現主義とスラブ的激しい幻想が入り混じったような、原色氾濫の絵がぐるりと壁を占めたベッドルームだった。安眠ままならずふと目をやると、いっせいに激しい色彩が迫ってくる。
 
 また、おそろしく機能的で大きな手術室のごとき総白タイル貼りのお風呂場。大きな、同じく白タイルの浴槽に患者のような気分で身を横たえてほっとしていると、張りつつあったお湯が突如水になり湯冷めしそうになる。あげくに夜半フト気づいたら、共用と言われていた重厚なリビングのソファーで誰かが眠っていた。這々の体で逃げ出すとこんどは反動で4つ星ホテルに泊まったり。とにかく計画性の無い者どうし、上がったり下がったりはホテルのクラスのみではない、評価のしようもない旅であった。

 しかしあの旅の残り1週間、カードを失い、取っておきの現金のみが頼りの日々はとても心細かった。元来そそっかしくてアタマが良くないので、自己管理を簡潔にしている。日常的にお金の所持方、使い方にかんしてはシンプルをモットーとしているのだ。当時は旅においてもカード所持は一枚のみ、予備は持たずにいた。われながらお気楽なことである。

 帰途、ウイーンで野村さんと別れてフランクフルトのホテルに一泊した。だが当地の新婚さんは、わが甥ながらみごとに計画性あり、沈着な人なので叔母として見栄を張ってしまった。バカにされたり、心配を掛けるのが厭で災難については何も知らせず仕舞にしたのである。

 成田到着後リムジンで新宿へ。新宿からはいつものようにタクシーで我が家にたどり着いた。無事支払いを済ませたとき、お財布には確か千円札の一枚もなかったと思う。見事に有り金残らず使い果たしていた。

 そんな目に合わされたプラハの魔女である。一番愛でている彼女は。

 その他、玄関のドアにぶら下がり、山野が恋しかろうと先だって東大農園からこっそり手折ってきた赤い木の実の枝陰から迎えてくれる、リトアニアはトラカイ城近くの魔女。ドラキュラのモデル、ブラッド伯生誕地であるルーマニアの美しい田舎町、シギショアラの魔女はなぜか上品なおばぁさんだ。

 食卓前の小窓に下げたプロバンスの魔女は、いつもわたくしを正面からみつめている。大きな目、裂けた口元だが、どこか田舎女の愛想が見られると思う。けれど夫は「あの顔が気持ちよくない」と姉が来た食事どきに言ったらしい。「そんな告げ口をして!・・・」心外に思い夫の席にすわって横顔を見たらなるほど、鼻のいぼいぼも赤くにくたらしげだ。にやりとした目元、口元ともに意地悪げだ。姉は本気で場所を移すように言うがついそのまんま・・・・。

 他にモスクワから来た、見るからに汚らしい魔女などetc、つまり9体が狭い我が家にひしめいたいる。一番おおきい黒衣の魔女は東京女。いつもわたくしのベッド頭部のフレームにまたがっている。

  10年ほど前、もちろん夫に断り無しである。なにかの用事で、わたくしの部屋に入り、はじめて気づいた夫は帰ってきたわたくしに言ったものだった。「ギョッとした止めてくれよー! うちには大きな魔女がいるんだから魔女はもうたくさんだよ」 わが家はつまり10人の魔女の棲み家なのだ。


2007/11月 錦繍の秋深まりて、思うこと
                     
 紅葉を求めて夫とともに称名滝、黒部渓谷への小旅行をして来た。第一日目、近年麓まで道が拓かれた落差日本一を誇る、称名滝への登り道に差しかかった。30分ほどの行程を体調の優れぬ夫は、わたくし一人で見に行くようにと言う。6−7年前に二人で来た折はまだ遠く車の中から望むのみだった名滝だ。悪妻を自認するわたくしだって気に懸かる。しかし素直に厚意を受けて登りはじめた。

 渓谷の登り道。 右サイドに迫る、深く小さなV字型の幾層にも連なる山層。まだ色づきは浅いが紅、朱、えんじ、黄、の繊細な色彩のかさなりに緑の常緑樹も混ざり、目に、こころに映える美しさだ。滝からの清流は深く靄立ち込め、渓谷に迫るすべての山襞のあわいを漂い、山上へ、天上へと霞たっている。渓谷一体が、大いなるなにものかに守られている神秘のおもむきだ。美しさに見とれて歩みつつ、畏れにも似たへりくだりの気持ちが起きてくるのだった。

 登りつめた滝壺で、紅葉に映え天下る滝しぶきを受けつつの観賞もすばらしかったが、わたくしにはぶらぶら歩きの道中がより心に残された。前首相の曖昧な言葉の上の表現とは異なり、明らかな美しい日本がそこにあった。

  富山で1泊して翌日、待望の黒部渓谷へむかう。しかし夫は(体調が悪くトロッコ列車には乗れない、自分はもう何度も行ったからわたくし一人で車乗りなさい。ふもとの宇奈月温泉で適当に時を過ごして待っているいるから)と言うのだった。 彼の気分を引き立てよう。言わば夫孝行の気持ちでこちらから積極的にこの小旅行を計画したのだが、彼は彼で、お気に入りのトロッコ列車からの紅葉見物をわたくしにさせようとの思いがあったのを、わたくしも知っている。

 気に懸かるがまたもや厚意に甘え、一人でトロッコ列車に乗る。かねてわたくしの憧れていた名物列車なのだった。割合空いていたので彼に指示されていた通り、行きは後列右端、帰りは左端に乗ることが出来た。

 天蓋、窓のない電車に渓谷から吹きわたる風はまださほど冷たくはない。カメラ好きの夫によるお奨め席はたしかに最高!!!展開するスケールの大きい深いV字峡の連なりを堪能する。V字型の、太陽を受け輝く山層は、錦繍のきらめく饗宴。光の裏面となる樹林は、おなじ錦繍がほの暗い輝きを放っている。その陰影美が目に灼きつく。片道1時間20分の、雄大にして繊細な渓谷の大自然を堪能する。

 途中、鐘釣で下車して近隣散策。さらに終点、欅平らまで。余計なことからは五感をすべて解放して観賞しよう。欅平での最後、渓流ちかくの温泉で足湯を浴びたら、帰り道、駅への登り道がずっと軽いことに気づいた。昨日からのささやかな、でもわたくしにとっては結構きびしかった山歩きによる足の疲れがぐっと軽減しているようだ。たった10分ほどながら、足湯の効果恐るべしとの実感。

 心配しつつ宇名月温泉駅に戻ると夫は改札近くに居た。しかし彼は持参の重いカメラを開き、撮影する元気も出なかったらしい。近くの小博物館見学、散策、カフェーなどで約4時間半をすごしていたらしい。その夜は金沢に一泊。ゆっくりして無事翌日夜に帰宅した。

 旅の途中や帰途、カメラ以外の荷物は全てわたくしが持ち、すぐに疲れの出てしまう夫を見つつ、しみじみと思った。いつの間にか半世紀ちかくも共に過ごしてきたこの人、長い間優しくしてくれた人だ。それにドジでそそっかしく、その上ノー天気なわたくし。お金やお財布を無くしたり、その他彼に掛けた迷惑のほどは数知れなかった。 諦めているのか、体に事故がなかったことに免じてか、それらの事で声荒立てるひどい叱責を受ける事もなかったのである。

 どう考えても、主義,主張の多い悪妻であるわたくし。けっして仲の良い夫婦ではなかった。おたがいさま口が悪いので、ユーモア混じりとは言え辛辣な口論も多かった。しかもわたくしは夫の、昔風な家長意識を自分に都合良いように受け入れていたと思う。常に、大きく庇護してくれる存在として位置づけていた。 今更に思いいたる自身の甘さ、図々しさである。 「これからはわたくしが彼を守ってゆく立場になったのだ」そう考えて。すると不思議なものでなんだか元気が出てきたようだ。昨冬来なにかと苛立ち怒りっぽくなった彼に、わたくしなりの気をつかい、ちかごろ気分がいくらかふさぎ気味になっていたのだが・・・。彼の不機嫌も体調の悪さが多いに原因していたのだ。やっと再確認する鈍なわたくしである。

 半世紀分の恩返しをこれから勤めた処で、まだまだ彼のほうがずーっと分が悪い。なぜって、いくら人生長くなったとは言え、これから先は限られているのだから。終生ツケは払い終えないであろう。

 わがままで、怠け者のわたくしが、どうやら無事に過ごして来たのはひたすら悪運の神の恵みと、夫、母、姉の3大恩人のお陰である。とは常日頃の自覚だ。 で、なんの保障もないのに、この3人にわたくしが見送りますと公約してしまっているのだが、その気力がなぜかよみがえってきたのを感じる。

 春・夏・秋・冬と過ごしてきた人生の季節。わたくしの季節は冬構えに入ったわけだが、今や周辺の自然は錦繍の盛り。今年の秋色はさらに印象ふかい。

<追記>
 多分、あちこちにツケをため込んできたわたくしだと思う。知人、友人にも気づかずにずいぶんと迷惑を掛け、借りが出来ているのではないかしら!? とても払い切れるものではないと思われる。ー 美人薄命・善人は若死にする・惜しまれる人ほど早く逝く ー この3原則に反して生きているわたくしの先は知れている。???!!!「実情としては、口の悪いサカイ氏に、高橋さんは死なないだろうと放言されいるのですが・・・」

 今や余裕なく、家族のことのみ思い煩うわたくしです(笑い、3重奏ぐらいの大笑いですね)ご迷惑を掛けていても申し出でのない他人の方々に請い願いたい。道義地に落ちた、と嘆かれるこの時代にこそ、願わくば日本人の美徳を思い起こして頂きたいと思います。そう、厭な思い出、体験はすべてサラリと水に、忘却のかなたに流して頂きたいと希むのです。まさか山深い、黒部の渓谷まで行っていただきたいとは申しません。お近くのどぶ川にでも行かれ、高橋を悪し様に罵られた上で、どうか水に流していただけたら、と都合の良いお願いする他ないのです。


2007/10月 人畜無害、花鳥諷詠的エッセーを続けて来て

 勧められるままホームページのエッセー欄を担当して、いつしか数年が経ってしまった。書くことは考えることでもあるから、当初は自身の老化防止のため、と言った程度の軽いノリで始めたのだった。

  人畜無害な花鳥諷詠程度の身辺雑事、雑感を書いていて何程のものがあろう。と思っているので、気負いを持たず出来るだけ率直にを心懸け、気軽な気持ちで続けてきたと言うのがが実情だ。 とは言っても根が凝り性なので、時に熱くなって止まらずしゃべり続けたり、そのうち何時しか怠けるわけにはいかない月間行事となっていた。

 そんなわたくしだが、ここに来て考えさせられる。どうやらわたくしはこのコーナーによって随分と救われているのではないかしら?と・・・。思いがけないことに、待っていて読んでくださる方が居られることを知った。そしてそんな方に声をかけていただくことが多くなってきたのだ。たとえばこの夏、我が家の愚かしい夫婦げんかの顛末を記した折りなど、やはり書きつつも恥ずかしかった。でも当面一番わたくしの心を占めていた問題だったのでつい発表をしてしまったのである。

 ところが、意外にも色々な方から反響をいただいた。(思い至り、身につまされた)(臨場感があった)(自分のことを振り返らせたれた)などと・・・。

  思いがけない反響に、思いがけず力づけられるわたくしであった。いい年をして、いつまでもおバカなわたくしが、ずっと年若い人々の言葉で力づけられるっていうのも問題ありなんだけれど!! でもいくつになっても誉め言葉は嬉しい。年老いたこの際、元気の源となるエネルギーを頂くことはなにより大切。ありがたいことだ。これも引き籠もり的エッセーを続けてきたおかげだ。

 いかに独りよがりなわたくしでも、さすが書く時はできるだけ自身を客観視したいものだと思う。人畜無害(有害かしら?)花鳥諷詠のごとき文章でも、私的な雑感であるだけに、幾ばくかは普遍性を持ち、表現としても最低限ひとに通じるものでなくては・・・・と、一応基本として考えている。そして、そう心懸けて書き進む間に焦点はわたくしの中で、それなりに少しずつ消化、処理されて来るのだった。

 書きつつ問題点をこなし、発表して力づけられ、あいかわらず悪運のみに支えられていると思う。雑文を読んで下さるみなさま、声を掛けてくださるみなさまに今回は心からのお礼が言いたい。

  今後もお声をお待ちします。むろん、ご批判はなかなか本人の耳には届かない。(ほんとうは一番聞きたいんだけれど)ご批判、ご反論も聞かせてください。ぜひに。


2007/9月 夏の名残は ハード・ボイルドと名刹で

 猛暑に次ぐ猛暑、そして9月に入ってもなお続く残暑。夏によわいわたくしはすでにヘトヘト。おまけにこの夏は愚かしい夫婦げんかとその事後処理に追われたし・・・。 と言うわけで、いつもの夏より遅くまで、ハード・ボイルドに耽溺する。そうなんです。筋金入り、元祖ハード・ボイルドは、やりきれない夏の活性剤なのだ。毎年、クーラーをドライにした自室でダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーを読みふける。

 さっき、チャンドラーの長編(長いお別れ)を読み終えた。第2次大戦後のロスに、ちっぽけな探偵事務所を構えるフィリップ・マーロー。40代前半、独身。とてつもない腕っ節の持ち主で、投げやりな風情ながらダンディ。そして、実はふかい教養をそなえた私立探偵だ。そう、欲望渦巻くハリウッド周辺、アメリカ近代史に於いての男の中の男、真性マッチョなのである。

 彼を巻き込むのはいつも不毛で、お金にならない事件だ。その中で交わされる彼の気障すれすれ、ウイットに富んだ粋な会話の妙(もちろん、現代にあってはどっぷりの気障っぽさだけれど)。彼の口から語られる、乾いた鋭い文明、社会批評。

 ちなみにマーローは映画でもハンフリー・ボガート。ジャック・ニコルソン。ロバート・ミ ッチャム他が、いずれ劣らぬ男前な魅力をふりまいていた。そして今わたくしのお気に入り男優のひとり、クライド・オーエンによって、新たなマーローものが企画されているらしい。

 男の友情、男女の愛。信義、プライド、暴力。じつは深い情に絡まる世界をクール、非情に始末してゆく。つまりハード・ボイルド。このロマンチックで俗な快感が良い。読了後の乾いた虚無感が良い。とにかくウエットさがまったく無いところが夏の読書に最適なのだ。かっこよさに痺れていると厭な気分も薄らぐようだ。たしか(さらば、愛しき女よ)だった。マーローの有名な台詞、「タフでなければ男でない。優しくなければ生きている資格がない」 20代でしびれたが、今もなお「なんて素敵な!」とおもう。

 もっとも、ずいぶん前から勝手にせりふを一部換えている。「タフで無ければ人間でない。優しくなければ生きている資格がない」と。なにごとかの折々に思わず口ずさんでしまう言葉だ。ほんと、不変のかっこよさではないか。

 まだ残暑がつづくので去年手にしたマーローもの、(湖中の女)を完読しようと思い立つ。くやしいことに、終盤ちかくの大詰めに来たところで映画館の椅子に置き忘れてしまったのである。椅子があまり良くない時の対策に、腰のくぼみに本をあてて疲れを予防するのを習慣にしている。そしてそのまま忘れてしまった。ふたたび買うのが残念で、むかし読んだものだし・・・とそのまんまだったんだけれど・・・。自由が丘の、その手の本が揃った古本屋さんにでもゆこうかしら?。

 思い切って酷暑のなかを出掛けることにする。じつはもう一つ用事があるのであった。先日、バスの中に健康保険証を落としたらしい。バックからなにかを取り出すときにハラリと落ちたのでしょう。警察署から取りに来るようにと連絡を受けている。夫にバレナイうちに処理をしておかねば・・・。いつもうすらぼんやりしているらしいわたくし、夏はことさらそれが激しくなる。情けない限りである。

 警察で頭を下げ(拾い手の住所などは未届けだった。お礼も言えない)自由が丘へとバスに乗るが、車中で九品仏駅の地名を聞いた時、ふと降りてみたくなった。大樹が立ち並ぶながい参道を歩み出すと、ちがう空間に入ったかの涼気がある。木陰に位置をきめて絵を描くひとびとが三々五々、そのほかには、わたくしのようなそぞろ歩きがほんの数人程度。

 九品仏・浄真寺にはバスで4−5停の距離だのに、30年数年ぶりかしら?息子が小学生だった桜の季節、他の子供達2−3人を連れてお弁当持参で家から歩いてきたことがある。ここからさらに等々力渓谷に。子育てをしていた頃、ほんとうに良くいっしょになって遊んでいたものだった。親達であるおとなと付き合うのは人を選ぶが、子供達とのつきあいは楽しかったのだ。一人っ子の息子を出来るだけ友人達と遊ばせたい。と思っていたが、実はじぶんもいっしょになって遊んでしまうことが多かったなァ。

 寺名ゆかりの、17世紀の阿弥陀如来9躰を拝観した。重要文化財なので入堂は出来ない。桟の入った分厚く黒いがらすに顔を寄せ、目をこらす。むねにひびく、み仏の美しさだった。お顔から光が射してくるようで、光背がふかい陰影を添えてお包みしている。ゆっくりとすべてのみ仏を拝顔する。

 思わず時間をかけて、他の上人さま、鍾馗像なども見てまわる。広い境内は立木も多い閑雅な庭園で、しばし暑さもわすれていたが、さすがに疲れをおぼえる。人目を避け一隅の石に腰掛けると、気後れしながらもタバコをとりだした。ちゃんと携帯灰皿に灰をおとしつつ、得も言えぬうつくしさにつつまれたお顔が、この夏のたけだけしさを忘れさせていることに気づかされる。

 かたわらの雑草の穂先に、なにか、か弱く仄白い花が咲いているかのようだ。蝶かしら、花かしら?不思議な・・・と思う間もなく、微かな羽ばたきで過ぎ去っていった。ちいさなごま色の紋が、どこかはかない蝶だった。秋の予感だ。樹齢700年を超える樹木のくろぐろとした幹。木々のざわめきは太陽を受け、光りをきらめかせる。蝉しぐれしきりである。



2007/8月 あの厳しい人に育てられたはずが


 先月、いつものように 姉の家に母を連れ帰っていた夜のこと、わたくしと姉はふさぎ込んで話し合っていた。原因はわたくしの夫の不機嫌である。そして、その原因は例によってわたくしにあるのであった。

  その夜,日頃夫に注意されているにかかわらず、わたくしの不注意、あるいは横着な子機の取り扱い方のせいで、(これは彼の主張であって、いまだ釈然としていないが)電話が故障し、彼が待っていた非常に大切なFaxが受け取れなかったらしい。で、運悪く電話にでた姉に八つ当たりをしたのだった。「とにかく喜代子に電話させます」と、わたくしの代わりに詫びながら伝える姉に、夫はもっとも親しい者への気安さからか「電話は要らない、もうあの人の顔も見たくない」と言い、日頃のわたくしの気に入らぬ所行の数々を言い立てたそうである。姉が落ち込むのは当然だし、それを見るのはとても辛かった。

 大人が義理の姉とは言え、他人にそんな理性を失った言葉を吐くなんて、ひたすら情けなさをも感じる。しかしこれにはむろんさまざまな伏線が確かにある。(夫も老いたなー)としみじみ思う。この半年ほど前からもう7年以上になる大阪詣で(毎月、母のもとに通うのを称して)に夫のほうに疲れが見えはじめたのだ。わたくしにとってなによりありがたいことに、夫は昔から母の長所、欠点を共に理解して冷静に丸ごと受け入れてくれる人だった。そんなおおらかさに、嫁姑など、とかく女同士に生ずるむつかしい関係をおもい、夫により、男性の長所を知らされた思いで感謝と尊敬の気持ちを持っていた。・・・はずであった。

 そこへ以て夫のこの暴言だ。姉とわたくしにはひどくこたえる出来事だ。長女で責任感、使命感が強い姉は、当然もっとも母の存在に束縛されている。この3年来、車で10数分の介護付き有料老人ホームに母を預けているので、しじゅう見舞いに行っている。そしてホームからの判断伺いその他、なにかと連絡がある。さらに思考の衰え、こころぼそい母からの、とりとめのない相談など・・・、その都度ドキッと受話器片手に胸騒ぎするらしい・・・。

 毎月のように行っているわたくしにはとても良く理解出来る姉の状況だ。そしてわたくしの気持ちでは、そんな姉にすこしでも役立ちたい、というのが(大阪詣で)のいまひとつの大きな目的なのだ。

  姉が夫の怒りを伝えに来た母の部屋で、ちょうどわたくしは母のむくんだ足や体を撫でながら寝付かせようとしていたところだった。手を休めぬまま2人で暗い会話を進める。 要は夫も心身ともに老いてきたのに、わたくしが彼の厚意に甘えたまま、馴れにより、日常の態度が悪くなっていたのである。これに対して、きっかけを得ての怒りの暴発とわたくしは理解した。姉が心配するので言わずにいたけれど、今回出がけにも、帰郷の日程のことで言い争って家を出てきてしまっていた。母のこととなるとわたくしも構えてしまい、過剰反応を起こしてしまうのであった。

 と言うのも、このところ夫の態度に(母ばっかり大事にして、俺はどうなんだ)的言動があり、大阪詣でに苦情が出るようになったこと。要するにジェラシーを持ち出したらしい。わたくしにはなんでも話せる姉弟、貴重な親友もいるが、彼は一人っ子、もう親友もいない。重いカメラを担いで趣味の撮影旅行に出掛ける体力も乏しくなり、近年はもっぱらDVDいじりに紛らわせている。日常のストレスのはけ口が妻のみになっているのが現状。そしてその妻はいつも新たなストレスの要因をつくり出している。

 それに考えてみると、本来夫は古い時代の男性だ。長い間、家庭内ウーマンリブ闘士の挑戦や教育を受け、多少の成長、改革?は成されたであろうが、ちょっとした刺激ひとつで一挙素にもどっても不思議ではない。夫の中にある、歴史的、文化的、潜在意識下にあるオトコ意識は、いつ表層に顕れても不思議はないと考えられる。そしてそれは、わたくしの中のオンナ意識についても同様と言えるのではないかしら?。夫の厚意に依存し、甘えている事態もそれである。

 夫の暴言は親しい姉への甘えで、ついかんしゃくを吐きだしたにすぎないのであろうこと。そして、103才の現在、いまだ自身で排泄、身仕舞い、歯磨きなどの日常作業をけんめいに持している母をわれわれ子供達は理解している。だからすこしでも長く、人としての尊厳を持ち続けて欲しいと応援するのは、ある意味、まぎれもなくわたくし達の自己満足、およびエゴであること。姉もわたくしも我がエゴのためにがんばっているに過ぎないこと。つね日頃感じていたこと、姉との話し合いで見えてきたこと等々、ボソボソと長く暗い夜の語り合いがつづいた。

 「なにか喜代ちゃんの家で問題が起きているの?」ちいさく話しているので内容は判らぬながら、異変を察知している母が訊いてきた。「いいえ、ちょっと栄一さんが・・でも大丈夫ですよ。大したことではありませんから」「ベクちゃんに何かあったの?」ベクとは母がかわいがってくれた我が息子の愛称だ。「いいえ、ベクは元気でしっかり仕事していますよ。お嫁さんとも仲がいいし」「何か判らないけれど、心配なことがありそうだからお姉さんによく相談をしたらいいでしょう」「はい、そうします」そのうちやっと寝入ったが、その夜は悪夢にうなされて度々声を上げて起きあがる母であった。ベクちゃんが来たでしょうとも再度問いかけ来た。

 姉に手をついて深く詫び、夫にはいままでの母への愛にあらためて礼を言うとともに、馴れ、傲っていたことを詫び、もっとやさしく話題の提供を心懸けたり、日頃の態度を改める事によってきっと今回の怒りも解消出来るでしょう。ツマリ、今までのツケが回ってきたのだから、努力して支払うようにします。と約してわたくしたちが寝についたのはもうとっくに1時も廻る時間になっていた。

 翌日、眠りの浅かった母が起き出したのは、いつもよりかなり遅い時間だった。雨戸を開け、身支度をてつだう。昨夜の事件、母の悪夢とのつきあい、トイレへの同行。正直、頭はふかい靄のなかだ。それでも気が張っているし、不安とショックを与えてしまった母の体調がまず気懸かりだ。すべては自分が引き起こしたことなのだ。朝の弱いわたくしもさすがにシャンとしている。

 朝起きるとまずは1階の雨戸を開ける。かってこの家に長く住んでいた母の習慣である。「食堂や応接間の雨戸はまだでしょう。もう開けないと」早速気にする母。うっかりするとあぶない足許、手元でみずから開けに行く。大事故にもなりかねない、目が離せないゆえんだ。「でもお母さん、昨日お姉さんと大事な用で遅くまで話していたから、もう少し寝かせて居てあげましょうよ。音を立てると気の毒だから。お姉さん、朝ねぼうですからね」ほほえんで母はいう「そうね、あの厳しいお母さんに育てられたのに、なぜかしらほんとうに朝寝坊なんだから。不思議なことだわ」

 わらった。わたくしは心から大笑いをした。母もわらっている。2年半まえの大病後、奇跡的にまた歩ける様になり、最低限の自立を果たしている気丈な母だが、あれ以来、頭のほうは回復を果たせない。あるときはまだ親が居る結婚前の娘であり、あるときはわたくし達の親であり、あるいはわたくし達姉妹は、母がこども時代からもっとも親しかった従姉妹たちであったりするのだ。そのいずれにも自在に生きるのだ。

 母は時を超えたシュールな人となった。ちかごろでは医者である弟の意見にも従い、修正などに無理をしないことにしている。母が自身の記憶や判断に不安を抱えることが良くあるので、むしろ(大丈夫、大丈夫。年を取れば物忘れはだれでもひどくなるし、お母さんなんて、お年にしたらよほど立派なほう。他の入居者の方々は、目標は黒田さんだと誉めてくださいますよ)と一生懸命大げさに誉めることにしている。不安を持たず、できるだけ気持ちよく過ごせることが大切なのだ。だから母の深まり行くシュールな世界に割り込み訂正するのは控えるようにしている。さびしいけれど・・・・・・。

 姉もどうせ眠り浅い夜であったに相違ない。思ったよりずっと早く起きてきた。トーストとコーヒー、チーズのたぐい。ともに母の好物だ。家族でかこむ食卓。この平凡さを繰り返すことで母をすこしでも人間らしい豊かさにつなぎ止めて於 きたいのだ。 気を取り直し、あかるく振る舞おうとしていることが見え見えの姉にわたくしは話した。(あの厳しいお母さんに・・・)の話を。姉もわらう。大笑いしている。つねに優等生であったが朝寝坊の弱点を持つ姉と、つねに身勝手な落ちこぼれ組、おまけに朝寝坊でもあるわたくしとで、共に突き抜けたように笑う。 

 たしかに開放的な家風ではあったが、躾け厳しい人であったと思う。とにかくご本人が賢者のごとく客観的に??そうおっしゃるのだ。これほど確かな事はない。 姉もわたくしもだんだん元気が出る。母の世話、まだまだ続けられそうだ。キリキリしないでも大丈夫。こんなに心から笑えるんですもの。

[後記]
 あれから2週間。我が家は平穏をとりもどしている。詫びるべきは詫び、そしてわたくしのことだからやはり、いうべきと思うことも言ってしまった。そして態度はなるべく小さくと心懸け、話題ご提供も心懸ける。その気になれば変人奇人あまた集うアトリエに面白い話題は尽きない。判ってはいたことだけれど、夫婦の間柄は振り子の原理、相手の動きがもろに伝わり、良い方にも悪い方にも共に振幅を繰り返してしまうのである。わたくしのサービスは今の処、彼を非常に紳士的な人にさせている。もんだいはツイ調子に乗ってしまうわたくし。のど元を過ぎればで、わたくしがその日の気分、疲労度などで、またもやデンと大きな態度を取ってしまう怖れがあることだ。

 あーァ あの厭な思いはもうこりごり。若いときの夫婦げんかも疲れたものだけれど、老いてなおする夫婦げんかの疲労度ったら!!ほんとうに、あの厳しい人に育てられたのにダメなわたくしである。


2007/7月 闊歩する女たち

  仕事帰りの夜遅く、恵比寿駅ちかくの路上で女の人とすれちがった。キリッと締めた黒のロングエプロン、手にはビニールの包み、前を見て足早に去る。たぶん近くのレストランなど飲食かんけいに勤めるひとと思われる。小気味のよい歩き方だった。 そう、あれは自分を持つ人の歩みだ。おもわず振り返り見送る。あー日本の女性達もうつくしい歩き方をする人が多くなったなぁーと実感しながら・・・。

 今もあざやかに覚えている、うつくしく闊歩する女たち。それは約30年ほども前に見た映画「ジュリア」の一場面だ。1920年代末のオックスフォード大学構内を談笑しつつ歩む2人の大柄な若い女性。後の社会主義者、ナチス台頭下闘う人となり、抹殺されるユダヤ系富豪の令嬢ジュリア。と、後に作家となり、マッカーシズムの赤狩りに抗したリリアン・ヘルマンの若き日の姿だ。

 リリアン・ヘルマンの自伝的小説をフレッド・ジンネマンが撮ったアメリカ人、2女性を描いた映画だった。 ジュリアをバネッサ・レッドクレープ。リリアンをジェーン・フォンダが演じていた。ニューヨーク育ちの少女時代、芸術にあこがれ、夢と想像のおもむくまま、奔放な語り合いの日々をすごした2人が、境遇のちがいからそれぞれの道を辿りつつも、友情を守り育てて行く物語り(実話?)である。嘘を吐くのが本質の作家の自伝だから必ずしも真実ではないと知りつつも、女性が社会の中で、闘いつつ確実に自己を形成してゆく姿が「女の友情」に描かれ、当時としては画期的な作品だった。
 
 オックスフォード大でのシーンは、たしかジュリアの学ぶところにリリアンが訪れた再会の場であったと思う。圧倒的なうつくしさだった。前をみつめ、未だおそれを知らず、未来を、今を熱く語り合う2人の女。女性がこんなにも堂々と、しかも美しく歩む姿をはじめて見たと思った。そのかっこよさにしびれるほど憧れ、感動した。いらい、わたくしのもっとも好きな映画の1つとなった「ジュリア」の中で、もっともすきな忘れ得ぬシーンとなっている。

 70年代に入って、アメリカで起きたウーマンリブ運動。娘時代からの愛読誌「婦人公論」でも径行してしばしば取り上げられていた。新しもの好き、お先っぱしりのわたくしだ、当然影響は受けたとも思う。実感としても、60年に結婚して以来、持ち前のエゴイズムで夫と揉めながら自分の場を造ろうとしていたわたくしだった。今思うと、夫にとっては迷惑で手強い家庭内ウーマンリブ活動家の出現だったのだ。そんなわたくしだから生と性の自由、産む、産まないの自由を求めて女達が声高にしゃべり始めたのは全く良く理解出来た。共感もおぼえた。

 だがすでに72〜3年頃、あのころにはわたくしのウーマンリブ思想は大きく変化していたのをはっきり覚えている。ウーマン・リブ以前だと思っていた。ヒューマン・リブだ!なんだか男の方がより解放されていないではないか!? 多分それは生活費を稼ぐという場に自身を置くことなく過ごしてきたわたくしの、男性への(夫への)憶測と詫びの思いでもあったろうと思う。

 全くわたくし的だが、60年の結婚、63年の男児出産後の子育て(たった1人だが)と携行して、世は高度成長がつづいていた。73年のオイルショック後も、発展、変化のめまぐるしい時代だった。これも後にして、さすがエゴイストのわたくしもしみじみと思い返されるのだが、男性達は(夫も)実に良く働いていたと思う。当時、専業主婦だったが、漠然と考えたものだ。(わたくしにはとても家族のため、生活のため、あんなに働くことは出来ない)また(多くの人々の間つまり、好まない、気の合わない人々の多い世間に出て生活費を得るために働くのは大変な労苦であろう)と。

 むろん男性が、家族や生活のためのみに働くのでない事は大前提であるが、とにかくあの時代男達はよく働いていた、との実感がある。わたくしはエゴイストであるとの考えを深くし、家庭内ウーマンリブ運動の矛先がしばしば鈍り、要求がおだやかだったのもそのせいであったと思われる。これも凡人のわたくしが後にして判断し得ることなのだが・・・。

 多分80年だった、あの映画をみたのは。媚びない人として、時代の悪しき風に身を以て抗った強い女性をあの歩みが見事に表現していたと思う。その後、外国旅行をして日本に帰って来た時など、成田からのリムジンバスが新宿あたりに入る車窓で、ツイがっかりさせられたものだ。街を行く女性達の歩き方にだった。(もちろん自分のことは棚上げしちゃってます。でないと批評精神なんて持てませんものね(笑い)。装いは世界水準だが、膝はガクガク、腰が落ち、背筋も伸びていない。なんだか日本が文化先進国とは思えない光景だ。

 時すぎて、知人の葬儀に出掛けた90年代に入った ある日。私鉄駅から案内の矢印に沿って歩いていたわたくしの後ろに、カッ、カッとはっきりした靴音がせまり、追い越していった。先方は気づかなかったが少し知る女性だ。30代に入って結婚して1〜2年てとこだったかしら?みごとな歩き方が気持ち良かった。(よい結婚生活を送っているのでしょうー、キット)と颯爽たる後ろ姿を見送った。その頃からだったと思う。うつくしく闊歩する女たちが見られるようになったのは・・・・自己を持つひとが増えてきたのだなぁ。とそんな姿を見る度に嬉しかった。

 考えてみると、80年代後半にはながく愛読していた前記「婦人公論」の誌面がつまらなくなって取るのを止めていた。多分女達に、婦人雑誌から思想、文化などというものを学ぶ姿勢が無くなったからであろう。婦人啓蒙の雑誌「婦人公論」のながき使命も終わったのだ。 女たちはどん欲に男社会に進出を果たしていた。知的にも互角、あるいはそれ以上の人がザラにいる。雑誌も互角で共有する時代が到来していたのであろう。こんなこともみな、後にして知ることだが。

 女の時代と言われて久しいが、先夜のエプロン姿の女性もその一人。やっと日本の女性もうつくしい歩き方が身についてきたようだ。「ジュリア」を想い、わたくしが見てきた社会の変遷を想うと、いささか感傷的になったりもする。だがふと考える。女は強く、且つうつくしくなったが、日本の男たちはどうなのかしら? もしかしたら弱く、且つみすぼらしくなって居るのではないか??男達の解放度はより減小してはいないかしら??? いえ、多分そんなことは無いであろう。クジャクのように飾り、しなやかに歩く男も多々居る。たしかにマッチョが男の美学とは限らないし、わたくしだってマッチョはあまり好みでない。

 あァ遠く はるかな日、70年代に望んだヒューマン・リブ。他はさておき、衣装、容姿、所作の点では見事実現されたようだ。 


2007/6月 江戸っ子かたぎ
                                         
 先月ひさしぶりに本郷へ出掛けた。転勤期間をのぞきずっとアトリエに通って下さる方が、これまでの集大成として、個展を開かれたのだ。

 会場は赤門の向かいあたり、昔懐かしい感じの喫茶店だった。青年時代からのながいお付き合いになるので、拝見するこちらも個人的な感慨がともなう。失礼ながら息子と同い年の方、作者の人生のあゆみにも想いがいたってしまうのだ。良い意味での年月の経過があり、時に激しいものも溢れるしっかりした個展だった。

 帰途ひさしぶりに東大かいわいを散歩した後、行きとはちがう地下鉄路線に向かう。地元の方らしい通りすがりの年配女性に道を尋ねたら、気さくに私もその方向だからと言って共に歩いて下さった。「ずいぶん久しぶりなんですが、このあたり割合変わり方がすくない様ですね」と言うと「まぁそうだけど昔は喧嘩が多かった。よく喧嘩をしていた」と言われてほぅーと驚いた。「喧嘩ですか?」「そう、通りでしょっちゅう喧嘩があったものですよ」すぐに分かれたが、ちょっと想像できない光景だ。

 帰宅後なにげなく夫にその話をすると、三田で育った夫も「そうだ、そうだ」と言う。戦前、戦中の慶応大学近くの三田通り、今よりずっとせまい電車通りで、男同士の喧嘩をしばしば見かけたそうだ。「喧嘩って、口げんかなの?」「いや殴り合いだよ」 遊んでいたこども達もそれを見ると、すぐちかくの三田警察に走って知らせに行ったりしてたらしい。

 もっとも、大人も子供もぐるっと囲んで野次馬見物を決め込む連中が多く、そんな時は、いつも警察の表に立っていたサーベルを下げた怖いお巡りさんが飛んで来て、しょっ引いてゆくことも再々だったとのこと。

 そういえば(火事と喧嘩は江戸の華)との言葉もあるが「江戸っ子は気が短くて乱暴だからなァ」と夫もなつかしげに笑う。本郷も芝も、けんかっ早い下町気質濃厚だったのであろう。旧満州の都会育ちのわたくしは、こども時代、中国人同士派手に罵りあう喧嘩を見た覚えはあるが、往来での大人同士の殴り合いなど見たことが無い。まるで落語みたい!!なんだか新鮮でおかしい。

 ところで昨夜、これもうら若き乙女時代から会員である方の、初個展に行った。オープニングパーティ当夜だ。土曜日の閉講後、柴村講師とおくれて会場である東銀座のお食事処に着いた。明るく健康的な雰囲気のお店に、気負いなく、愛らしさの漂う絵が良くマッチしている。さわやかな個展だ。彼女は以前しばらく、土曜クラスで水彩を描いて居られたので柴村講師も「懐かしいなぁー」を連発しつつ絵を見ていらっしゃる。

 サガンの講師連は揃って、おざなりな指導は出来ない人たちだ。なんとか絵を描く趣味を身につけてもらいたい。少しでも上達させたい!と仕事意識をはなれ、ツイ身を入れてしまう絵描きらしい面々だ。長年それを知悉しているわたくしの、これはマネジャーとしての大きな喜びと誇りでもある。

  ついでに言うと、みんな多分に変わり者だけど(失礼)とても 魅力のあるこの方達の、4人4色。際だって異なる個性の上に立つ、危うくも、渾然たる調和。これもサガン教室の大きな魅力だと思う。そしてわたくしとしては敬愛するこの人達との出会いを、人生のもっとも幸運なめぐり逢いだったといつも感じている。 だから、指導当時の絵に対面する柴村講師の感慨、さらにこの日、2次会でとてもご機嫌だった、長年の指導者である斉藤講師の感慨。ともにストンと気持良く、こちらの胸にも伝わって来るのだった。

 もっと感激、感動しているのは当然、発表者ご本人だった。あのさっぱりと快活な人がハンカチを手放せないのだ。みんなの祝福を受けている今夜、4度目の泣きだったそうだ。その後も彼女は幾度か泣いたみたいだが(ばらしちゃってゴメンナサイ)おかしくも可愛らしかった。一緒に行った彼女より年若い女性会員など「可愛らしい。抱きしめてあげたいようだ」と感動している。これも可愛らしいが・・・・。いい夜だった。

 ふと思った。以前、彼女が神田生まれと知った折(らしいなー)と、微笑んだ覚えがあるが、今日の彼女、まさに情にもろい神田っ子そのまんまだ。さいわい喧嘩は廃れたようだが、今もなお、江戸っ子気質は健在らしい。


2007/5月 この世ならぬ
                                         
 なぜか、この世ならざるものに惹かれてしまう。と言ってもオカルトの類ではない。不遜なのかしら、このジャンルわたくしは自身の目で見、体験したことでないと納得できないのだ。と言っても完全に否定しているわけではない。わたくしの見聞なんてこの世の一部に過ぎないし、科学がこの世の現象すべてを解明しつくしたと思っているわけでもない。だから、 霊の作用なども あり得ることかもしれない?程度には考えている。

 こころ 惹かれるのは、ものがたりのなかのこの世ならぬ世界だ。これにはなによりも<ことばの力>が要る。選りすぐられたことばの力で<ゆめと、うつつ>のあわいにあるものが立ち上がってくる刻。手練れの技に惑わされるそのひととき、少しおおげさだが知の陶酔的なよろこびを覚えることがある。

 ふだんわたくしの自分時間は、新聞とコーヒー片手でスタートするのだが、A紙の連載小説「宿神」が始まって今日で124回。これを読むのが楽しみだ。平安朝期、平清盛の青年時代にはじまるものがたり。はじめて読む夢枕獏の作品だった。世にひそむもののけや、裡に抱える邪念から鬼と化した人間などの、この世との、あるかなきかのあわいを、妖しくかいま見せてくれる。嘆じ入ることばの匠である。

  こども時代のピーター・パンや、アルセーヌ・ルパンへのときめきが蘇るようだ。昨日など源義清とあやかしの技を持つ下人との、この世ならざる優美な蹴鞠の遊技をたのしんだ。ものがたりの中、夜闇に潜みともに妙技を愛でているらしきギャラリー、鬼やもののけらと共に・・・。

 ことばの力って凄いなー!とこのところ毎朝のように歓ぶ。むかしから言葉によわいわたくしで、気をつけねばと自戒することの一つだが、これはもう手放しで歓んでいられる。苦手な朝がこんな風に迎えられるなんて・・・。気持ちでは、A新聞社にお礼状でも送りたいところだけれど、無精なので、そのまんま愉しみっぱなしだが・・・。

 ところで、またいつもの饒舌なんですが、すでに終了したA紙前回の夕刊小説。吉田修一の「悪人」、これも凄かった。良かった。わたくしはこの作も毎夕期待して読んだものだ。 こちらは全くリアルだ。佐賀の山へ分け入る峠道で行われた一つの殺人。加害者、被害者、およびその周辺、係累の人々が、鮮やかな存在感でデッサンされて行く。あたかもルポルタージュのような筆致で平凡な人々の、ひとり、ひとりの日々が、我が身近くに息づく人のように覚えてくる。

  思わず感情移入してしまうこれら普通の人々の描写が、おのづと現代の世相を見事にデッサンしていた。人それぞれが生きることの根底にある孤独感がリアルに漂い、胸を圧するように終えた力作。これも言葉の力だ。すでに芥川、山本賞を受賞して中堅にある人だが、この作家も寡聞にしてわたくしは初めて。凄い作家だ!と、遅ればせながらも嬉しい発見であった。

 この書「悪人」は最近単行本になり、書評欄でもたびたび取り上げられている。そのつど(我が意を得たり)と、まるで育ての親のように、なぜか喜んでしまっている。いつもながらの他愛なさだ。

 話をもどして、虚構と現実のはざまに構築される統べての芸術分野。現実を検証しつも、ときに現実を凌駕し、あるいは未来を予兆し、現代をのちの世へ止めるこの世界もまた、この世ならぬものではないかしら? 秀作に出会えるよう、アンテナを張っているが、映画狂のわたくしは、日常的にはまず手軽で、総合芸術でもあると思う映画から多くの恩恵を受けている。

  その他最近では、ミーハー的芸術ファンとしてやはり出向いてしまった、ダビンチの「受胎告知」。品の良い繊細なうつくしさがこの世ならぬ美を漂わせていた。それから、先々週見た芝居。野村萬斎監修、川村毅演出による現代能楽集「AOI/KOMATI」もすばらしかった。能・現代劇・舞踏・カメラによる舞台装置の効果など、古典と現代の融合を満喫したものだ。 人の情念が、ひそけくも存分に濃密であり得た平安朝の女人、葵の上と小野小町。2人の中の永遠に女なるものの妖しさが、現代に生きる女性に見事転生されていた。とても面白く、ともに、この世ならぬものを見せる芝居だった。

 こうしてみると、実によく遊んでいる、と、さすが気が引けてくる。さきほど、言葉のちからによる、この世ならぬものに酔うに、警戒はいらないと書いたが、本当はすこしく、いえ結構心配しなくてはいけないことであろう。身はこの世、生きるに大変なこの世に在り、人並みな悩みだって抱えて来たのに、振りかえるとずーっと昔から、こころが現実から離れがちに逸れてしまうのだった。

  5つの時に失った、7つ上の姉への想いをはじめ、読んでいる本、空想・夢想にとらわれる刻が多かったように思う。生来の質と思うが、それはたぶん逃避でもあったろう。だが、思い込みの多い独りよがりではあっても、わりあいと満ちた人生だったのか?あるいは、より良きものを多く逃したのか?ハムレット的疑問だ。
 
 でも、もうここまで来てしまった。行き馴れたオタク人生を、これからもぶらぶらと行くことにしよう。


2007/4月 爛漫の春に


  朝のベランダ。シーズンを迎えた我が、ランブリングフラワーズ・ガーデン〔花乱れ咲く庭。勝手に名付けた大仰な呼び名です)はわたくしにとって楽園だ。
  
 光を浴び吸収した、つややかなビロードの光沢に、色合いをより深めたビオラ、パンジーの群。2本のリラの内、紫はまだ固い蕾だが、白の蕾は、すでにふくらみ、間近な開く日を告げている。 香りたつ、 真しろきアリッサムの可憐な小花達。

 少しいじけながらも、暖冬にちらほらと咲き続けてくれた、フランス原産のアイビーゼラニユウム。これは20年前、母、姉、とアンボワーズで、名城の真向かいにあるホテルに泊まった折、花好きな母の目に止まったものだ。

  匍匐性で姿、色合いの優しいゼニュームは、当時の日本ではまだ見受けぬ品種だった。宿のマダムにことわって、4−5本の新芽を手折らせてもらった。テッシュをしめらせてビニールに包み、ホテル移動の度ごとに、大切にカップに挿して保った上、密輸入?したのが先祖である。その後母の庭で無事に育ち、さらにわが庭で新芽を育て鉢を増やして来たものだ。四季咲きなのでほとんど一年中わたくしはフランスの花を愛でている。

 あの秋、ロワール川に面した砦のような城を望むアンボワーズでのホテル。折から、満月の夜だった。雲ひとつ無く、冴えた蒼白の光が古城をくまなく照らしていた。あの夜の月光は、わたくしに今なおあざやかな残照を止めている。

 16世紀の名高い宗教戦争。聖・バルテルミー大虐殺の折、城の露台から、多くの新教徒の亡骸が吊されたと言う。その大きな城壁をも月はくっきりと照射していた。皓々と蒼ざめた夜の古城。あまりの 美しさ、凄惨とも想うほどの美しさに魅入り、あの夜はなぜか眠れぬ夜だった。

 リラには故郷が偲ばれ、いろいろとノスタルジーも寄せてくるが草花に良い季節は、手入れも怠れ無い季節だ。毎日のように数十、それ以上もの枯れ花、枯れ葉を摘む仕事がある。
(おぉ、何てうつくしいのかしら、君は!)今をさかりの花々に思わず声に出る讃辞を告げつつ枯れ花摘みにも精を出す。

(憶えているよ、君の輝きを。 きれいな色を! ありがとう!) 人には優しくないが、古マンションの自分のベランダガーデンにはメロメロなわたくしは、臆面もなく花々に愛をささやきながら手入れに勤しむ。

 あぁ 時は春、日はあした(と言っても夜更かし朝寝型の遅い朝だけれど)花の手入れは、もっとも好きな時間のひとつである。一仕事終えると、飼い鳥?のキジバトや雀にも餌を撒いてやる。さぁ ゆっくりとお煎茶でも入れよう。上等な和菓子が、昨夜ひとつ残っているし・・・。

 陽を浴びた、わが、ランブリングフラワーズ・ガーデンのベンチで、新聞、灰皿を前にする。遠く爛漫のさくら並木は、少し憂える花ぼんぼりだ。毎年この季節に親しむおだやかな憩い。幸薄いわたくし?としてはこれでもう、★ビギン・ザ・ゴールデンタイムだ。ちょっと丁寧にお茶も入れたし、さて、和菓子をいただこう。
 
 ところが、無い!無いのであった。和菓子の箱が見つからない!! 陽気を気にして冷蔵庫に しまったんだったかしら? 年のせいでどうも勘違いが多い、問題だわ。これも・・・。

 これも年のせいかしら?すっかり古妻の図々しさを身につけたわたくしは、我が家でたったひとつ残ったりした美味しい物は、我が物になると決め込んでいたのだ。ハタと気づいてゴミ箱を見た。有った、空箱が捨てられている。夫もまた甘い物に目がない。彼だって、出掛ける前に目にした好物を口に入れる可能性がある事を、予想だにしなかったのだ。残念、ちゃんと仕舞っとくんだった。長年の奢りで敵を甘く観ていた。これからは気を付けねば〔笑い)

 仕方なく、シュウクリームを取り出す。夫が買って来たこのお菓子、わたくしとしてはクリームの味があんまり好みで無い。なんだかゴールデンから一挙、シルバータイムに格下がった感じ・・・。でも、まぁ妥当じゃないかしら。だって、正にシルバータイムに棲んでいるわたくしなのだから・・・。


2007/3月 映画(善き人のためのソナタ)を見て


 待望の表記映画が封切られたので早速見てきた。

 背景は冷戦下、壁の崩壊からさかのぼること5年ほど前の東ベルリン。当時、強固な共産主義体制を擁していたのは、国家保安省(シユタージ)であった。映画の冒頭、字幕によって(東ベルリンでは10万人の協力者と、20万人の密告者がいたと言われる)と観客は知らされる。

 シュタージュの局員ヴィスラーは、反体制寄りと見なされる者への尋問に、冷酷で有能な手腕を発揮する大尉だ。ある日かれは、当局にマークされた著名な劇作家ドライマンと、同居する恋人で、やはり著名なの舞台女優、クリスタの監視役を命じられる。証拠を見つければ出世も約束される。
 
 国家保安省(シュタージュ)は劇作家のアパートに大がかりな盗聴装置を仕掛け、ヴィスラーは家主を強制買収した屋根裏部屋で終日監視の盗聴をはじめる。そして2人のすべてを把握することとなる。なにしろ巧緻な盗聴は、会話、2人の愛、室内での動向に至るまで、カメラとマイクで筒抜けに伝えているのだから。

 ほどなく、反体制的であるとして当局に長く仕事を禁じられている、ドライマンの良き仕事仲間であった演出家(E)が、この先も再び解禁を受ける望みがないことを知った絶望から、自殺をしてしまう。深い打撃を受けたその夜、(E)からの包みを解き、贈られた楽譜(善き人のためのソナタ)を弾くドライマン。寄り添うクリスタ。

  このとき、盗聴するヴィスラーの変わらぬ硬い表情。しかし頬に流れるものがある。 敬愛していた(E)の死を機に、ドライマンは精神の自由を求め、志を共にする友人達と、危険を賭しての文筆活動を始める。東の実情を内外に知らせようと動き出すのであった。一方、クリスタは権力をかざして彼女との密会をせまる、政府高官に追いつめられてゆく。

 これから見る方のためにも、その後の展開は省略させていただく。感傷を排した優れた演出で、優れた脚本が進められる。(33才初監督。4年の精密な取材による自作脚本)音楽、映像も素晴らしい。 ラストは特に胸に訴えるものがある。人の営みが続けられて行くことの痛みと尊厳がこころに呼び覚まされるのだ。たなびく明けの光芒のように・・・。上等な小説を読み終えた後のような感銘だ。

 こころも表情も、あたかも一切の感情を拒否しているかのヴィスラーを演じる、ウルリッヒ・ミューエ。見事な名優だと思った。眼差しでの表現がほとんど統べてである。彼はまた、労働者ふうのジャンパー姿、或いはぱりっとしたスーツ姿、どちらもみな、ぴったりと似合わせてしまうのだ。シュタージュの一員として習得した強力な武器であったろう。役柄とオーバーラップさせても見事の一言に尽きる。

 ヴィスラーは当初おそらく40代前半と思われる。すると、彼は生まれながらにして共産主義体制に遭遇していることになる。彼の悪辣な上司達は体制を利用して、自身の出世欲、権力欲を満たすのに余念がない。しかし、真っ直ぐな現体制の信奉者である彼は、疑問を抱かぬまま異端者の摘発に辣腕を振るっていたのであろう。独り者でもある彼がはじめて接した、自由な思想に生きたいと希求するひとびとの、生きた柔軟な会話。文学。音楽。権力ある高官の横恋慕に怯えつつも深められる、苦しく濃密な男女の愛。おそらく意識せぬままに変化していった、彼のたましいの覚醒が苦しい感動を誘う。

 体制崩壊後のラスト場面。配達夫となり、雑誌を乗せたカートを引く、冴えないトレーナー姿もまた、ぴったりと溶け込んでいた。 彼は、崩壊後の人生をも淡々と表情を変えることなく、愚直、誠実に受け入れたのであろう。激動のドイツに在った、市井の善き一員として、・・・。

 余談だけれど この映画から触発されて、さまざまなことを考えさせられた。まずは体制順応者と異端である反体制者の意識についてであった。大きな体制と言えば、まず国家体制であろう。それらは当初、権力を持つ指導者によって形作られ、受け入れた民衆とともに推進する。第2次大戦時の日本が好例とされている。風潮として、民衆が受け入れれば、それはその時代の体制となるのだ。

  体制が邁進するとき、反するものは異端者として厳しい処罰を受ける。まさに(善き人・・・)の時代のドイツと第2次大戦下の日本は同じ状況にあったのである。そして、ヒットラーに呼応してドイツ帝国主義を謳歌した時代の全ドイツも全く同様ではないか。

 さらに考えを進めると、現代の宗教、石油利権、国家利権などなどををめぐる、世界的な体制にまで延長する。せざるを得ない。これも次元はまったく同じではないかしら? アッ 愚考ついでに思い出されるのが、洋の東西、古近を問わず、国の指導者に賢帝、賢人はめったに居ないようだ。愚王、暴君、お馬鹿リーダーばかりが目立つ実情は、あーァ何ということかしら!!!

 それにしても、生まれながらにして遭遇した現体制は、ヴィスラーのように大抵の人がまず疑問を持たないし、自己保身の本能としても信奉してしまうのだ。わたくしにしても、幼少時に大日本帝国主義のすり込み教育を受けている。植民地だったので、子供心にも、ちらほらと疑問を持つ出来事があったのをはっきりと覚えている。だのにそれ以上を深めることはしなかった。子供心にタブーを感じたのである。大人に聞いてはいけないと思ったのだ。

考えてしまう。わたくしが日頃物事の基準にして考える、普遍性って何だったんでしょう?と。 ほんとうに曖昧であると思う。つまり、その時代に多くの人が考えを同じくしているであろう。との基準のみである。そしてご存じのように、いまや時代はめまぐるしく変遷してゆく。今日の普遍的な意識も愚衆の多数決に過ぎず、この国のに在っての、今のわたくしの周辺での普遍的な意識であるに過ぎないのだ。

 変わらぬのは愚かなリーダーを担ぎ出し、その国の、その時代の普遍的意識に従い、100年前、1000年前の愚行を繰り返している人間世界だ。人は歴史から、ほとんどなにごとをも学んでいないようだ。怖ろしいことに思われる。わたくしが気を付けても仕方ないとも思うが、やはり この事を意識することに依って気をつけよう。などと思案する。

 文明、文化の進化も基本的な面で信じられない・・・とは、かねてわたくしのような虚無的でなげやりな人間が、ぼんやりと考えていたことだ。それでもなおかつ、それだからこそ、人の営みが愛おしく、胸に迫ってくるのもこんな秀作に接してこそなのである。

 良い映画だったので、自分一人の胸に納めるのはもったいない。せめてこの文を読んで下さる方にお知らせしたいと書き出したのだが、おしゃべりなので余談が多くなってしまう。お許しいただきたい。

 今ひとつは、劇作家がかって監視されていたことを知り、解放後2年ほどして当時の記録が保存されている機関に赴き、そこで、完璧に保存された自身の監視記録を見る。さらに、監視者が誰であったかのファイルをも閲覧するのであった。これは本筋とは別の感動と衝撃だった。戦後さまざまな記録をいっせいに焼却、埋蔵した日本と対照的な違いではないか!
この事実は、ナチの所行、国家の所行を、未だに、しつこいほどに自国民に知らせる姿勢と一致していると考えられる。公共マナーなどにも、自他ともへ厳しいドイツ人のモラルが推察、かつ思い知らされる挿話だった。

 それにしても日本人は国の所行、あるいは国が受けた所行、以下事の大小を問わず、何ごともすぐに水に流したがる国民性だと思う。自他ともに対して・・・。この国に、むかしから水があまりに綺麗で、ゆたかに流れているのも、善し悪しだ。


2007/2月 イタリア一人旅/完結編

  イタリアン・トレインパスはやはり消失していた。多分バックに入れる際、一片の紙片としてカバーの間からハラリと落ちたのであろう。子供時代から、いつも他の事柄に気を取られて上の空の行動が多いのだ。充分に緊張しているつもりなのに注意力散漫な性癖はいっこうに修まらない。

 「あー、検札が来たらどうしよう」駅に改札口が無い代わり、無札や乗車前の自主的スタンプ受印がないと、罰則的な高い料金を支払わねばならないと聞いている。第一「パスを無くしました」と言って信用されるかしら? とたんにわたくしは無賃乗車を犯している気分になり恐ろしくてしょうがない。これまでのところ車掌さんは必ず改札に現れた。チケット喪失を知って後は窓外の風景に見入る余裕も失い、ボローニャへの残り30〜40分を、ビクビクとうろたえてやり過ごすハメになってしまう。

 結果で言うと、さらにパロマまでの計2時間半、幸運にも検札は来なかったのである。2線ともローカル線。内1線は2等車のみの鈍行で、通学の学生なども多かったからであろう。マントバ辺りから諦めと覚悟が出来はじめ、ドキドキ感もやや落ち着いて来る。列車はしばらくトスカーをよぎる。10数年ぶりに目にするこの風景。糸杉や城の点在するなだらかな丘陵は、ほとんど官能的とも思える美しさだ。なつかしく窓外を見やる余裕も、ほんの少しは取り戻していた。(改札があったその時には、ありのままに答える他無いのだからーと。)

 悪運に守られて無事パロマ駅に着いた。わたくしはドロミテ渓谷からの登山帰りだという、向かい席の女子大生の大きな荷物に隠れるようにしてドキドキと駅を出る。なんだか、ただ乗りを果たした気分に陥っているから・・・。

 パロマはやはり好ましい街だった。2泊して小さな町を例のごとく歩き廻る。もっとも心を惹かれたのは12世紀建立のドゥオーモ隣のアンテラーミ作の八角形、六層の礼拝堂だった。仄白い花崗岩の外壁には一面の浮き彫りが施されている。内堂のつくり、彫刻、彫像、壁画もいかにも中世的な神秘と暗さをたたえてすばらしい。翌日今度は昼の光の中でと、再び訪れた。花崗岩のかすかなピンク色がレリーフを引き立て、建物のロマネスクな美しさがより際だっている。あらためて外壁を見て回った。けれど内堂は前日、夜闇に包まれはじめた壁際の椅子に掛け、小窓からのほの明かりをたよりに眺めたほうが好ましかった。壁面を占める暗い色調の絵画、置かれた彫像などが統一され、気品ある静寂を醸していた。中世の内奥に抱かれゆく想いがあったのだ。

 それにしても入館時、おなじ女性館員が昨夜は4ユーロを受け取ったのに、今日は小銭を返してくれた。一瞬ポカンとしたが理解する。入館時気づかなかったがシニア割引制度があり、今日はそれに該当すると判断されたらしい。昼の光は厳しい。多少高くついてもわたくしはやっぱり夕闇の礼拝堂にこよなく惹かれる!(笑)

 そうそう、パロマで食べ物の話をはしょることは出来ない。レストラン、イル・トロバトーレでの美味は今なお至福感をもって懐かしまれる。それから、あれほど荷の軽さに拘ってきたのも一つには、当地で最高のチーズ、パルミジャーノ・レジャーノ3年物と、これも名だたるプロッシエットを持ち帰りたかったからである。最古の老舗で最高の品をずしりと手に入れてにんまりする。

 ところで、あのトレインパスを無くしているわたくしは、その後、気を取り直してしっかりと対応したものです。(ェヘン!) まずホテルで、これからローマまでの予定を記して列車のタイムテーブルを検索してもらった。受け取ったプリントをチエックして該当列車をマークの上、翌日パロマ駅のチケット売り場に持参する。列車名、時間等明記されているから安心だ。ERの座席指定券、さらにローマから空港までのレオナルド・エキスプレスも入手した。後は今度こそゼッタイに無くさないように気を付ければよいのだ。

 旅の最後はシエナ。やはり以前からのあこがれの地である。有名なカンポ広場は丘の街シエナの麓、すり鉢の底にあるような傾斜を持つ広場だった。広場を囲むように立ち並ぶレストランのテラス席でお茶にすると、視点は自ずと旧王宮であった高い塔を持つ、うつくしい市庁舎に向かう。さながら大劇場の観覧席!!! 市庁舎を起点にした、堂々と優雅に美しい煉瓦敷きの広場は舞台そのものだ。町はすべてシエナカラーのこの広場を起点として、かなりの傾斜で扇状に展開している。つまりすべての道は広場に通じて居り、市民の日常生活は、旧王宮を中心とする石畳の坂道に拠っているのだった。

 これは高齢者に取ってかなり厳しい条件だ。今更のようにヨーロッパ人の強靱な精神の由来が思い知らせられる。自然を含め、生活条件の厳しさは多くの場合日本の比ではないと思われるから。けれども、町の佇まいは中世の趣をたたえ、ほんとうにうつくしい。坂の狭い路地を岐け入ると、ドゥオーモをはじめ、良く保存されたゴチックの建物がいたるところに残り、わたくしが泊まったホテルも古い僧院を改築したものだった。そこに至るまでタクシーはカタツムリのように螺旋の坂道をたどらねばならなかったのである。

 さて最終日、ローマに戻り、ホテルに預けていた荷物を受け取ったわたくしには、最期の難関があった。空港への便、レオナルド・エキスプレスの高い車体へのスーツケース搬入である。これは幸いにも同乗男性の助力を得て無事に果たすことができた。なにしろ昔はあんなに沢山いた赤帽さんも一人として姿を見ず、世界に名だたる女性好きなイタリア男性のはずが、わたくしなどの比ではない大きなスーツケースをいくつも運び込む若い女性達に手を貸そうともしないのだった。これはローマ到着日、空港から最初にこの列車を利用した折、まず驚かされた光景だった。わたくしが手伝ってもらえたのは高齢者えの親切だったと思っている。

 手助けする人や赤帽がいないのは、もはや荷物を他人に安心して任せ得ない時代が来ていることと無縁ではないと思われるし、すごい荷物を運び上げる、たくましい女性達を見ていると、つくづく時代の変遷を知るのである。

 さて、早めに空港入りしたわたくしは、例によって掲示面の下にへばりついていた。間違いなくわたくしの利用するエールフランス便の搭乗口である。あとは乗って親しい友の待つパリへ発つのみ。懸念されたひとり旅は大過なく終わらんとしている。椅子に掛けると大きな安心感、達成感が寄せてくる。(さぁ携帯で家族に連絡をとろう)夫は捉まらず、つながった息子に陽気な声で告げる。「無事イタリア脱出をする。いま搭乗口で待っているところよ」と。無鉄砲な親を持つ、気の毒な息子も安堵を隠せないようだ。明るい声で「でもまだパリに着くまで安心は出来ないから、パリに着いたら電話をするように」とのたまう。

 「ハイ、ハイ」調子よく返事をしてわたくしはシャトルバスに乗り込んだ。 バスに乗ってフト気付いた。そういえば成田のエールフランス窓口で受け取った今回の利用便を一覧記入したチケットはどうしたんだろうか?さっき窓口で受け取ったのはパリまでの航空券のみだった。(あー、わたくしはまたもチケットを無くしてしまったのかしら?)シャトルバスの中であわてふためき、しゃがみ込み、またもやぶざまに荷物をひっくり返すわたくしだった。無い!どこにも無い!!!

 日頃が日頃だけにまず自身を疑ってしまう。けれど、どう考えてみても搭乗手続き後、手にしたのパリ行きの、この一枚のみであった。カウンターの係員が返し忘れたのに間違いない。(アーどうしよう。扉が閉まる前に降り、カウンターに返してもらいに行こうかしら?)けれどそんな時間の余裕はないであろう。とにかく飛行機に乗り込んでから申し出でをしよう。

 悲壮なわたくしであった。あとで考えるとパリから成田までのチケットを無くしてもお金を出せば済む問題なのだ。(もちろん、わたくしにとっては大金だけれど)でもその時、茫然と転倒した気分の中で、あたかも東京に帰れなくなっってしまったかの思いに陥っていた。そして誰一人頼る人のない異境で、しゃべれない言葉を操って、わたくしはチケットを奪還せねばならないのだ。 アァ。

 乗り込むと、キャリーを頭上に納めてくれた搭乗員にわたくしは訴えた「わたくしはパリー成田間のチケットを持っていたが、241番カウンターで受け取ったのはこの1枚のみでした」すると彼は「貴女は空港でチケットを無くしたのか」と言う。おぉ!苦難はタメになるのであった。その時わたくしは突如、決して好きではない人、石原慎太郎氏の高邁な要望にお応えすることにする。そう、短時間の間に「NO」と言える日本人に成長していたのだ。この場ではいささかのためらいをも見せてはならない。断固としてわたくしは言った[NO!241番カウンターでわたくしが持つことが出来たのはこの一枚のみです」

 単語羅列の みっともない英語を人前で話さねばならない。恥ずかしさいっぱいのわたくしを彼は搭乗員詰め所?に伴い、上司に報告する。わたくしは、持っていた旅行社の、予約ナンバー入り搭乗予定プリントを見せて上司にさらに説明した。彼はそれを聞くとどこかに電話を掛ける。多分空港のカウンターらしい。会話のやりとりがだんだんと厳しい口調になってくるようだ。その間わたくしはなすすべもなく待たされている。とても長く思われる時間だった。出航前の辺りの慌ただしい緊張とともに時が過ぎる。もう出航時間は過ぎているのではないかしら?(あーわたくしが迂闊だったために飛行機の時間を遅らせているのか??)

 消え入りたい気分である。何かを手に入れると、もう一つは忘れてしまう。良くあることだ。買い物をしてお釣りを受け取るのを忘れ、追っかけて返されたり、お釣りを受け取って品物を忘れたり・・・なんとも色々と情けない人間だ。

 「OK、席に戻って下さい」と言われるまで20分ほども掛かったかしら。傍についていてくれたスチェアーデスに「これはわたくしのミスなのかしら?」と思わず問う。「いいえ、全然」との答えにやや力を得てわたくしは着席した。とにかく成し遂げはしたが肩身は狭い。

 極度の緊張に在ったこの1時間だ。どっと疲れが出る。あーパリの旧友Y氏と、休暇を取ってパリで待ち合わせしているアトリエのSさん。今、2人の顔を見たら、わたくしはワッと泣き出してしまうのではないかしら。在仏18年、仏語堪能なY氏とベテラン、スチュアーデスのSさん。あぁ〜頼りになるあのお二人が恋しい!!!

 出航が遅れたのはわたくしのせいでもなかったようだ。約40分ほども遅れ、パリに着いたのも遅かった。チケットの件は市内のオフィスに行くように言われて機を降りる。空港からサンジェルマンのホテルまでタクシーで。ところがこれまた不運にも小雨の中、延々たる渋滞だ。1時間半ほどもかけてホテルにたどり着き、Sさんの顔を見たときには安堵も込めて、もうフラフラ状態だった。あまりの遅さと連絡が無いのに(携帯の電池切れ)ひどく心配を掛けてしまったお二人には改めてここでお詫びとお礼が言いたい。(あの時、あなた達はわたくしのエンジェルだった)と・・・ホントですよ。
                                    
<追記> 
 パリ入りの夜は折しも第3木曜日。ホテルのロビーではボジョレーヌーボーがふんだんに提供されていた。けれど、さすがワイン好きのわたくしもほんの乾杯ていどを口にするのみだった。以前から目を付けていた、古風でロマンチックなプチホテルで良き友との再会の夜。もっとも素敵であるべき夜と言うのに、あれは返す返す残念だった。それにYちゃん、ずいぶんと嬉しそうに瓶を傾けていたっけ!  幾後も、 幾度も・・・

<追追記>
 パリでSさんから知らされたことだけれど、近頃は航空券もコンピューターシステムで電子チケットが多く、予約ナンバーと姓名さえ判って居れば済むらしい。更に、よくアメリカに行く友人に依ると、あちらの航空会社カウンターでは、自動発券機を使い、自身で発券することを求められるとのことだ。あー なんて恐ろしい世の中になっていること!変貌いちじるしい社会に、ドジなわたくしがこの先付いて行けるものやら。あーぁ 。


2007/1月 イタリア一人旅/地方編

 ラベンナへ行く最初の乗り換え地点ボロニア。ES(全席指定、高速列車)にも関わらず着いたのは10数分遅れていた。予定列車は既に出ているから次のにしよう。それにしてもボロニアほどの大きな駅にエスカレーターも無いのである。念のためホームを確認しようと尋ねた売り子さんは、後で思うとわたくしの年齢とキャリーを見ての親切だろう、横手の一画を示してくれる。行くと、若い女性係員にステンレスの大きな扉に誘われた。入るとそれは大きなBOX。箱は地下に降りた後開かれる。恐ろしく殺風景な広く薄暗い廊下をしばし行き、今度は男性係員に受け渡された。すこし歩み、おなじく大型BOXで上に昇る。その間、ひどく長く思えるなんとも不安な時間だった。(ドコに行くのかしら?他にだれもいないこんな暗い箱にうかうかと乗り込んでしまって!)  地上に出て、そこが確かに10番ホームだと確認すると心底ほっとする。これも後にして分かったことだが、荷物運搬用の大型エレベーターをわたくしは利用させて貰っていたのだった。  ひとり旅はやはりきびしい。

  しかし、それからの道中は調子が良かった。列車で向かい合った中年女性は、ラベンナに行くと答えたわたくしに、エミリア・ロマーニャ地方の美味しい食べ物、ダンテの家をぜひと進めて呉れる。もちろんこちらもそのつもり・・・。土地っ子の相客のおかげで、ローマ、ホテルのフロントのコンピュータでプリントして貰った駅とは異なる、もっと早く着くからと知らされた駅に共に降り、彼女とはホームで別れて乗り換える。そして3時前、無事ラベンナ駅に。

 駅からは選んでおいた市の中心地にある三つ星ホテルにタクシーで直行。もし部屋が無かったら2次候補のホテルへとの心づもりだった。なんと言っても観光には中心地が便利だし、三つ星なら一応安心だ。今回の旅はすべてこの手順で行き、そしていずこの地でも旨くいったと思っている。

 ホテルで部屋が決まると一休みしてさっそく街に出る。この町はビザンチン支配時代が長かったため、モザイク芸術の美しさで有名だ。ひとつだけ離れた地にある教会を今日の内に見ておこう。街の小広場から出るバスに乗る。

 思っていたよりはるかに遠いバス停を降りると、すでに田舎道は夜の中だ。教会までの4-5分、バスから一緒だった若いカップルに声を掛けて同行させてもらう。ほのあかりに見る、質素な作りの教会は内部の調度品も素朴でしっかりとしていた。丸天井頂点のキリストを中心に、羊で表現された12使徒。それら緑を主調としたモザイクで覆われた聖書の物語には、言い知れぬ素朴さが漂っている。モザイクの絢爛たる華やぎは、その稚拙感のある図柄とみどりの主調でやわらぎ、夜の中で自然や動物が愛らしく気高い光をたたえている。すべて心静まる神秘的な空間だ。

 けれど、だんだんと帰り道が心配になってくる。道はさらに闇に入り、いつ来るかも知れぬバスを待つ野辺のバス停。とても一人では行けない。 教会の出入り口でわたくしは帰途に付きそうな人を物色した。バス停まで同行を願い出るつもりだ。声を掛けたのは初老の3人連れだった。顔を見合わせて彼らはちょっと話し合い、どこへ?とたづねられラベンナと答えると頷いて歩きだした。

 付いていくとはずれの車に無造作に乗り込む。ためらうわたくしに、後部席を進めてくれるので礼を言ってとにかく座る。道中、運転席の夫婦と後部席の友人におだやかな会話が行き交う。友人がなにか辛辣らしい冗談を言い、2人が笑う。といった感じが繰り返されているようだ。

 東京から来たこと、ホテル名などを問われて答えると、友人氏はホテルのすぐ近くに住んでいると夫人。 20分ほどで町に着き、駐車の多い小広場の一画で車を降りる。礼を言うわたくしに友人氏が誤ってフランス語でぶっきらぼうに「いいえ、いいえ」と答えてしまい、照れた氏を囲みわたくし達は初めて笑い合った。

 ホテルに向けて歩みだすと、広場の建物の一つに第2次対戦レジスタンス犠牲者の記念日に当たるのであろう、花輪が飾られている。その前で夫人がわたくしに英語まじりで説明をしてくださる。わたくしも身振りまじりで伝える「とても悲しいことです。いまも世界のあちこちで戦争をしている。とても痛ましい」 と。

 夫人に共感の表情が漂い、大きくうなずかれる。広場には劇場もあり、ご主人が立て看板を読まれた。午後見かけた時から気に懸かっていたので「今日のプログラムは?」「今日はないですね。いつ帰るの」「明後日です」「明日もないな、見てごらん」ほとんど直感によるが、こんな会話のあとホテル近くまで来た。思いがけない親切にわたくしは精一杯のグラッチェを述べる。夫人は「私たちも東京に行くことがあるかも知れません。おたがいさまですよ」とにこやかに言ってくださり、握手を交わすと3人の気持ちの良いラベンナ人に別れを告げたのだった。

 車に乗せてもらった当初に受けた素っ気なく、ぶっきらぼうな3人の印象。ローマで受けたメリハリの効いた表情、声音の親切を思い、日本同様、この国でも大都会と地方都市の人情はまったく違うんだなーと実感する。そう言えばローマでは車に大きな顔をされて、怖れつつ道を歩んでいたが、ここでは車のほうが止まって通してくれる。この街ですぐに気づいたことだった。

 同様、町歩きをしていてほどなく、わたくしはとても気楽にしている自身に気が付いた。大観光地ローマと、ちいさな地方都市を行くのでは、緊張の度合いが異なるのは当然だが、全然別の感覚があるのだ。それはローマの街の重圧感に他ならない。何処にあっても、何処を歩んでいてもそこ、ここに残る遺跡、建造物の群。巨大、重厚なそれらの建造物は無意識の中にも常にその強烈な存在感でもってわたくしを重圧していたのだと知らされる。ローマの街の人々がどこか劇的で、はっきりとした存在感を持っていたことと無縁ではないと思える。都市と人との関係。環境が造りあげる人間性の問題などが今更に思考される。「アー旅ってやはり面白いなあ。」

 2泊したラベンナ。このちいさな街に眩いばかりのモザイクに彩られた幾多の教会がある。見回るうちに、ひとびとのほとんどが貧しい暮らしにあった古い時代に、こうした絢爛豪華な祈りの場が捧げられていたと言うことに、神を持たないわたくしも胸を打たれる。

 勿論庶民の計り知れない犠牲の上に造られたものだが、あまねく庶民に開かれた教会。ひとびとは、この天上的にうつくしい色彩がふりそそぐなかで祈り、悔い、たましいの高まりと救済を求めたのではないかしら?ことに小さな小さなプラチディア霊廟。深い深い青が基調のザイクで丸天井、壁面が彩られている。5世紀半ばの質素堅固なたたずまいの建物と、内部の年月を経た金彩のくぐもった華麗さは胸を突く美しさ!!立ち去りがたく、庭に腰掛けて小廟との分かれを惜しむ。街角のダンテの墓にも詣でたが元住居は時間に遅れ閉館されていた。

 ホテルの、にこやかなフロント氏から聞いたレストランがとても良かったので、2晩目にもおとずれたら、ウエイター達が笑顔で迎えてくれる。昨日よりさらに丁寧な料理の説明にはじまり、実物を持ってきて教えてくれたりもする。そして注文した昨夜と同じデキャンターに、今夜は溢れんばかりのワイン。とても飲みきれるものではないが心嬉しいサービスではないか! 「アー旅ってこれだから止められない。」

 発つ前夜、フロント氏に列車のタイムテーブルをと頼む、ローマ同様、やはりパソコンで検索してプリントを渡してくれる。今のイタリアでは、少なくとも三つ星ホテルならこのサービスが可能らしい。これで旅がぐっと気楽になってくる。フェラーラ〜ベローナ〜パルマ。フェラーラ〜パルマ2方法を調べてもらい、今回、チップは5ユーロに止める。多分充分な額であろう、にこやかなサンキューが帰ってきた。だんだんと賢い旅人になったようだ。

 翌朝わたくしはパルマへと向かった。無理は避けてベローナはつぎの機会にしよう。ただしフェラーラにはやはり途中下車する。ルネッサンス期に栄えたこの町は、わが敬愛する師、とも思う作家塩野七生さんの著などによって、よく知る街なのだ。イタリアルネッサンスの華とも言える叡智と美貌の人。北イタリアにルネッサンス文化を育て、花開かせた芸術のパトロンとして名高いマントバ候夫人、イザベラ・デステの生まれたエステンセ城と旧市街は必見の用がある。

 フェラーラ駅でがっかりする。コインロッカーはやはり閉ざされている。中身は最低限なので軽いのだがキャリーを持って回らねばならない。時間は多く取れないから、タクシーと足をフルに活用しよう。先ずはかのエステンセ城へ・・・。

 月曜の今日、市のほとんどの施設は休館日でさらにがっかりする。しかし、中世の跳ね橋を残す、堅固な城は外回りと中庭、内部、入場可能なほんの一部を歩くのみでも見応えがある。人ひとり来ない回廊の入り口で想像をひろげ、華麗にして陰惨な名家の往事を偲ぶのも決して悪くない。

 窓辺に在る若きイザベラ・デステを見、弟君で城主となった、アルフォンソ公とルクレチア・ボルジアの政略結婚による、祝典の場をも思い描く。そして、若き日城の塔に囚われたまま30数十年後に生を終えた、謀叛の罪あるエステ家の2人の弟君・・・。イザベラ・デステ晩年の手記にあった「夢もなく、怖れもなく」の言葉が繰り返し胸をよぎるのであった。
   
 その後、閉じていた見所はタクシーで外を回るのみ、中世を残す街中はキャリーを引いて歩くこと3時間。これも中世からの大聖堂に入った後、向かいのレストラン、テラス席でゆっくりとお茶にする。

 いよいよ次の街、パルマへと腰を上げよう。少女の日からのわが永遠の憧れ人。ジュラール・フイリップ主演(ホント、古いなー!)の名画(パルムの僧院。原作スタンダール)を見て以来のあこがれの地にいよいよまみえるのだ。それにパルマは名だたる美食の町。期待はおおきい。

 駅でタクシーを降りるとイタリアン・レールパスにしっかりと乗車前の刻印を通す。乗り換え地ボローニャ行きホームを確認して早めのスタンバイだ。なにしろ時間、ホーム、時には行き先も突然変更があるとのイタリアだ。さすがのんきなわたくしもこの旅では飛行機、列車ともに早くから掲示面の下にへばりついてのスタンバイが怠れないのだった。

 案の定直前でホーム変更があり、キャリーを引いてのホーム引っ越しだ。階段を上がると、さっきホーム下の通路でたばこを吸っていた女性がおなじホームにいた。(そーか、通路の掲示面を見つつ風をやり過ごし、機至るのを待っていたんだ)くやしい!今後はこの伝で行くべきだ!!

 窓外にいくたびも映画でみたエミリア・ロマーニャのすっきりとうつくしい田園風景が流れる。アーやはり列車の旅は良いなー。でもチケット点検がそろそろ来る頃だ。パスを用意しておこう。無い。さっき刻印を押したはずのパスがどこをさがしても見つからない!!!

 パニックに陥り、ぶざまに持ち物をひっくり返して調べているわたくしをのせた列車は、独特な、真っ直ぐに伸びるあの木立のつづく景観の地を走っている。
                                                                                  つづく


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