2023年
2022年
2021年
2020年2019年2018年2017年2016年2015年
2014年
2013年2012年2011年2010年2009年2008年
2007年2006年/2005年/2004年2003年2002年2001年

 
2022/12月 迷走しつつ瞑想の師走に


 今年の1年間は、今までで最も静かに動かずに過ごした年であった。表面上とその行動範囲においての話だけれど、、、、。コロナ禍にたまたま自身の大病が重なったこの数年間でわたくし自身に大きな変化が起きたことを認めねばならない。

 幼少時はよく寝込む虚弱児だったわたくしは、女学校入学後、確か1年生の後半から戦時下の勤労に駆り出された。毎日教室で、分厚く重い軍服のボタン穴を手でかがっていた。同じ作業を繰り返す日々であったがお国のため、兵隊さんのためと思い込む軍国少女のひとりとして疑問は抱かなかった。

 1年生で始まった英語授業がすぐに無くなったのが残念だったのは覚えている。当時30代前半か20代後半?だった女性教師(F先生)は物理も教える理知的な先生で、大きく声に出すリーディングを促されるはじめての英語の授業。それは数少ないとても魅力ある楽しい時間だった。

 けれど物理はてんで苦手。興味もない。でも憧れの師を思い、ノートだけは急なチエックに備えて見栄を張って整えていた記憶は深い。

 F先生は優秀で進歩的な方であったらしい。日本帰国の後は東京の役所機関で働き、活動されているお名前を、成人した後年に新聞で拝見した記憶がある。懐かしさと共に「やっぱり!」と納得したものだった。
(でもわたくしの英語力は、戦後はロシア語が教科となったため、その後の大きなハンディとなったものであったが)

 女学校2年生になると確か、体育・教練の厳しい試練の授業以外は全て勤労奉仕になったように記憶している。学校近くの大連神社のそばで大きな貯水池を掘る作業が日々続いたものだった。
土をスコップで掘る役。2人組で天秤棒に平たい籠を担ぎ、掘られた土を積み込み離れた平地まで運び降ろす役。これが生徒達の1日の授業だった。

 この勤労奉仕は終戦日の1945年8月15日正午、大連神社のスピーカーでほぼ聞き取りえぬ天皇の放送を聴く時まで続いた。急遽全生徒校庭集合の後、集団下校を命じられた13才のあの日は、忘れえぬ緊張の1日であった。その日のことは当欄で以前記した記憶がある。

 遡って1941年、日本本土に比べると毎日を緩やかに過ごしていたと思う小学3年生の春、新校長先生が赴任して来られた。以来校内の規則がさまざまに強められたとわたくしは感じていた。そしてその冬12月8日の真珠湾攻撃による開戦であった。新校長が以後急激に戦時教育を推進したのを覚えている。戸惑いや辛さが子ども心に起きたのもはっきりと記憶している。

 禿頭の校長先生が熱心に語る姿にフト滑稽を感じ、内緒で笑いをこらえた事があったのも事実だけれど、、、、。でも兵隊さんのことを思うと、疑問や反抗心は起きなかった。

 後に思うと父は、その経験と知識により当時様々なものを心中に抱えていたのであろう。
戦争が始まっていてわたくしが10才くらいだった頃、父が「イギリスでは、天皇が宮殿に現れると集まった人たちが“ジョージ。ジョージ。”と言って手を振り、天皇も手を振り返していた」と語るのを、不思議な感覚で聴いた記憶が脳裡に刻まれている。

 これも後に思う(そして知る)ことだけれど、父には国の厳しい先が大分見えていたのであろう。
父は先祖伝来の日本刀大小を、戦時下の軍の厳しい命令に従わずついに供出しなかった。日曜日になると刀を翳し、打粉で手入れするのは見慣れた姿であった。戦後も進駐してきた中・ソの命令に反して供出せず、地下に埋めて隠すという危険を賭した人である。勿論自身の命だけでなく家人の運命をも賭してである。

 明治人の父になぜか偏愛されたわたくし。でも家伝の銘刀を埋めたその父の心底は測り知れない。理解もできない、いまだに。直接問うたこともついに無かった。でもわたくしも大好きな父なのである。今も、いまだに抱かれた膝の感覚がある。

 さて女学校での半年間、日曜日以外は続けられた『勤労奉仕』に確実にわたくしは鍛えられた。当初はヨタヨタと土を乗せ運んでいたが、次第に量も速さも鍛えられ、それは歴然としてきた。自身で身をもって自覚させられ、それは何となく自信にもなり、病気も俄然少なくなった。あの時期を持たなかったらわたくしは、本や夢想にのみこだわる体の弱い人間に育っていたかもしれない? その確率は決して低くなかったと思われる。

 以来わたくしはとても体力に恵まれた人生を送ってきたのだ。ひどい頭痛持ちは消えなかったが、父母からの授かりものとして当たり前に健康を享受してきた。それを生かし母の長い老後生活(106才まで)や姉の老人施設への転居先選び等を心身ともに率先して応援、援助したつもりだ。それが出来る体力、気力に恵まれていたのであった。

 心掛けの悪いわたくしに恵まれたそのこと、のかけがえの無い有り難さ! 今にして改めて、わたくしの守り神と思う『悪運の神』に謝す思いを深めている。

 現在のわたくしの体力は一昨年の大病前とは全く異なってしまっている。アタマも当然衰えている。そしてはじめて老いの孤独を身を以て知り初めているのであろうと思う。愚痴っているつもりはない。現実として遅い自覚を噛み締めているのだ。

 そして体力、気力、判断力が間に合う間に老人施設へ転居することを決意したのである。息子の援助を受けて最近その『大仕事』を進め始めたところだ。

 自身の想像力の貧しさに今更気づいている。体力、気力、判断力を頼りに種々参考勉強になりそうな本も読んだりしつつ、わがままで集団生活に弱いわたくしが好んで予定していた『お独りさまで最後まで我が家で』の方針。だが、現状観察、予測困難な体と心の展望、家屋内諸設備の不調時のオタオタぶり等で、見直さざるを得なくなったというのが実情だ。

 飲食の支度以外の日常生活の雑事に人一倍疎く、諸問題への対応にお粗末な力しか持っていなかったことがこの2年半で判明し、見えてきたものが多かった。そう思っている。それなりに熟慮して出した今年の結論。『老人施設への転居決定』を、それなりながら頑張ろうと思い動きはじめている。

 それにしても見守ってくださる暖かい方々の眼差しを感じ、大きな力を戴いていることが改めて自覚させられます。世代を超えた友との大切な交流、みなさまありがとうございます。甘え過ぎぬよう気をつけましょう。

 老いのくりごとのようなこの雑文コーナー、書くことでそしてお声を頂くことで随分わたくしは救われてきたと思っています。今年も読んでくださった方々本当にありがとうございました。

 様々に厳しい状況の中、みなさまご多忙な年末をお過ごしでしょう。穏やかな日々を祈ります。心から。

2022/11月 柿を食べながら


 柿の皮を剥く。薄めに切り、口に運ぶ。食べごろの香りがわたくしの痛んだ口舌に秋をゆき渡らせる。
この柿の実、30数年にいたる期間の交流がある、歳の離れた若い友(Kさん)から送られてきたものだ。

 2年半前の舌がん手術以来わたくしを見守り励ましつづけて下さり、我が家の玄関先までご主人と共に訪れ見舞っていただいたことも幾度か、、、、。
がんの転移により死を覚悟した折の身辺整理にも、何も問わずご夫婦で力を貸して下さったものである。柿を食みつつ、我が身我が境遇のしあわせを思う。

 先月はS藤講師の杉並にある新居への招待もお受けした。
旧知のK氏に託したタクシー送迎つきのもてなしだった!(S藤先生、老体への思いやりに感謝あるのみです)
他に招かれたのはS井講師ほか、サガン開室以前からの旧知数名の方々だった。

 昨年、S藤講師が杉並のY画伯の旧宅を借りるに至るには、多くの難関があり多くの決意を要されたに違いない! 直接聞き知っていたし理解もしていたつもりだ。それでも招かれて改めて祝福の想いに満たされたものであった。先ずはやはり広く、高く、光と落ち着きに満ちたアトリエの大空間! 圧倒的な存在感だ!!
住まいは、既に各部屋の佇まい全てが日々を醸しこころ豊かに落ち着くお家だ。

画家としてのS藤氏の幸運、決断を心から祝した。

 礼文島の蟹(実に美味、わたくしとしてはおそらく今までで最高の蟹)の他、心のこもる料理と尽きぬワイン。こころ許す友びととの会話、体を優しく受け止めてくれる椅子。そしてわたくしの悪癖である喫煙空間も許されていた。午後2時前から夜半までのかなりな長時間、自身が危惧していた体力も保ち続けたのであった。

 このご招待、本当に嬉しかったし、その後々もわたくしに力を与えてくれたものだった。S井・S藤二人の講師はわたくしにとって歳の離れた3~40年来にわたる大切な友だ。思わぬ展開で人生の局面を共にし、志を持って『絵画教室アトリエ・サガン』を起こし共に困難、苦闘を乗り越えたものだった。そのことが改めて感慨深い。

 ところで明日はまた大きな喜びと緊張を控えている。
パリ在住の旧友Y画家が10月に開かれたシテでの個展を終え、5~6年ぶりに帰国されるのに合わせた、会食の予定なのだ。この会食も、かつてY氏と共にパリを拠点にナンシー等フランスを旅した元スチュワーデス(Sさんの)ご尽力による集いである。

 30代に入って名を成していた仕事を退社し、絵描きを目指しパリに転居したY氏であった。当然さまざまな問題が起きたものだった。なぜか聞き役になっていたわたくし、思ったことをいつも述べていたが、彼が真剣、率直に苦悩した時期は決して短くはなかったのを覚えている。

 しかし彼の絵描き魂は勁かった。本物であった、改めてそう思う。パリ左岸の自宅にはここ数年来、個性的なフランス人女性画家も同居し、明るい彼女に救われていると電話で語っていた。彼との交流も、省みると40年近い! 見つめてきたその苦しみ、迷い、成功、安らぎ等々改めて感慨が深まる。会えるのが嬉しい。

 さらに来週は3年ぶり、小学校の同窓会が催される。最年少にあたる幹事さんも既に80歳にはなっているでしょう。弟も兵庫の施設から上京して参加するので、会場近くに1泊ホテルを予約した。その集いにも、この歳になると何かとこころの準備を要する。

 告白します。楽しみを伴うさまざまな予定、予約。それでもそれらはどうしようもなく事前の緊張をもたらしてしまうのである。さりげなくこなすことが出来ない。近来わたくしは、これが老人性うつの症状でしょうと察している。だからどこかで腹を括ることも少し出来ていると考えている。

 述べてきたように、自身が世代の近い親しい数人の友以外に世代の離れた友にも恵まれ、見守られている事に、先ずは何よりもわたくしは感謝している。心強く思っている。
それ故の甘えなのでしょうか? 今月は取り留めない言葉を述べわたくしの心細さ、弱さをも吐露してしまいました。老人の甘えとお許しいただけたら軽くなります。

 このところ自身の今後の生活展望を見直し、検討もしています。息子とも相談しつつ。

2022/10月 眉の中のしみ {不都合な真実}


 5〜6年ほど前からかしら? 眉の中の末端近くにしみができ始めた。左眉である。わたくしの眉、もともと秀麗優美な線を持っていた訳ではない、でも侘しさを覚えた。出来ればこのしみ、消滅させたい、、、、

 美容整形院を訪れ医師に相談してみたが「眉の中のしみ」の治療、消去は出来ないとの宣告であった。

 あれからそのしみは、だいぶん大きくなってしまっている。幸いあまり色濃くはなっていないけれど、、、、
年齢の重ねとともに老い、衰えゆく容姿。寂しいが当然の摂理である。
 
 寂しくないと言えば嘘になる。告白すると、わたくしの場合、年齢とともに容姿の衰えを覚え、それを悲しみ、もっとも嘆いたのは50代に入る頃だったと記憶している。

 あの頃の感覚、たぶん現代では60代に入る頃の女の人の感覚でないかしら?
もちろんそんな感覚の有無、自覚などは、今も昔も人それぞれ個人的な問題と思いつつですが、、、、

 長く生きているとどうしても、「眉の中のしみ」のような歴然たる{不都合な真実}が生じて来る。顔面には他にもしみが生じ、わたくしはその進出をあるがままに受け入れ続けている。

 これはわたくしの人生で生じた、表に目立つ「地政学的」問題でないかしら?美容整形等に通い、消してもらう熱意も起きず、いくばくかの寂しさを覚えつつもあるがまま老醜の現象として受け入れている。受け入れ得ているように覚える。

 ところで、現在も過酷に進行するロシアの侵略の暴挙。プーチンの主張する国土復帰、奪還の主張!!!
人類、国家の歴史の中で生じるさまざまな{不都合な真実}への言いがかりのごとき過酷な戦争は未だ見通しもつかぬ惨状を呈している。

 日々世界は苦しんでいる。

 ヨーロッパに属するウクライナ対ロシアの戦争!そして国を挙げて戦うウクライナへの支援は欧米、日本でも強力に行われていると思う。戦による難民への対応等もかなり積極的に行われているようだ。
それをせめてもの喜びと思いつつも、別の寂しき感慨がよぎるのも事実である。 

 人間の歴史の中、「地政学的」問題から生じた戦争は決して今更のことではない。多国籍軍のレバノン介入(1982–1984)あたりからアジア・アフリカ・その他各地で多くの民族が長年にわたって合い争い、脅し、奪い、殺戮し合い、多数の難民を生み続けてきた。現在も続いている。

 長年苦しく見守る他なかったけれど、この問題は未だ解決の目処が立たぬ「世界」そして「日本」の大難題であろうと日々思っている。西欧に属するウクライナのみの問題ではない。決して!!!

 この現実、人類の長い歴史とともに生じる地政学的リスクの大きさ。この{不都合な真実}に対して払い、担う代価はあまりにも重く、長く苦しい。

2022/9月 他力本願なれど、やり過ごす日々に


 安らかな日々を送る人々がこの世界に本当に居るのかしら?そんな疑念を覚えるほどに暗く厳しい月日が続いている。
ことにロシアが起こした戦争以来の日常生活は重い。

 むろんこのような機に乗じて経済の利を得る企業、個人が多くいるのも知っている。けれどもそれらに関わりない大衆の一人であるわたくし。信仰・信念も持ち得ず日々を過ごすわたくしのような独居老人には暗黒ニュースが堪えるこの数年である。それとて“自己責任である”ことは深く認めているけれど、人生100年時代を生きるのは厳しい試練である事実にほぞを噛み締める思いの日々でもある。

 幸か不幸かわたくしの口腔がんは新しい治癒に適合し、今もわたくしは思いがけぬ命を得ている。これが深く感謝するべき事態であるとの自覚は深い。認知症が進み取り止めのない日々を施設の支えで生きる姉と、その姉を支える精神科医であった弟。

 2人とも姉弟であるともに、我儘でのんびりと生きてきたわたくしにとっては大恩人でもある最愛の姉弟だ。
遠くからだけれど、未だ姉を見守ることができる! 姉を見舞い支える弟にもいくらかの力にはなれそうだ。なりたい!! そう思い、取り止めた命を感謝している。けれども2年半前の発病・闘病と年月の経過によるわたくし自身、心身の衰えが甚だしいのも事実である。

 我儘で、集団生活に弱いことを自認しているわたくしは何とかお独りさまで過ごして行きたいと考え、それなりの対策も自身で調べながら過ごしている。そんな中、幸い、4~5歳ほど下だけれど同世代感覚を持つ貴重な男友達S氏とは、2年半前のわたくしの術後以来「最後の晩餐」と称して折に触れて会食、雑談の機会を持っている。

 彼については別の機会にぜひ紹介したいと思っている。お寺出身の彼は、捉われぬ独自の強い信仰といえる信念を持ち、ガン闘病者としては3年ほども先輩である。そのS氏から先月、石原慎太郎の「私という男の生涯」を読み面白かったとメールで知らされた。

 興味が湧いた。慎太郎は若き日に「太陽の季節」ほか1冊ぐらいしか読まず、好みや興味の対象圏外の人であった。けれど彼が死後の出版を求めていたその本の存在は新聞記事等で兼ねて知っていた。そしてむしろわたくしの偏狭な好みの全く圏外であったが故に、同世代人である彼の生き方、終わり方に興味が起きたのであった。
お願いして先月の会食時に本を拝借した。

 何事にも意欲を失い、ついに映画館通いも途絶えていた夏の終わり。手にした異世界を生きる異人種であるかのような男性の記録「私という男の生涯」を、わたくしは1日の休みを入れ3日で読み込んでしまった。とにかく新鮮であった。

 並はずれた身体能力を備え、清濁ともにダクダクと併せ呑み、文武両道豪胆な政治家として非凡であった彼の率直な言葉は本当に面白かった。毛嫌いしていた面が大きかったが、この齢、この時期だからこその感慨も大きい。

 なにしろ全くの同世代人だから書いていることの背景が衰えたわたくしの頭でもついて行ける。そして若き日の氏を日活の野外パーティで一見したことも思い起こされた。あの日は北原三枝・長門裕之さんも拝顔した覚えがある。当時勤めていた丸ビルの小会社の社長がなぜかお供に連れて行ってくださったのだ。

 撮影現場を観ることもできたのは日活のサービスだったのかしら?
小生意気で洋画好きなわたくし。社長に感謝を伝えた覚えもあまりないのが今更に悔やまれる。ずっと、ずっと数十年を経て子供を持たぬ社長が折に触れ可愛がって下さっていたことにやっと気がついたものだ。元大連汽船の船長さんだったH社長。すでにお礼も述べられぬ遅れに遅れた気づきであった。

 趣旨が逸れたが、時の流れにはやはり時代と言う確かな風潮が根底にあると思える。わたくしがむしろ毛嫌いしていた石原慎太郎氏が、自身とそして妻の死後に発表を望んだ1冊の本。今更ながら・・・は否めないけれど、わたくしの頑なに老いた脳も少しは和らぎ、開いたのではないかしら?


2022/8月 岩波ホールとの別れによる追想


  先月末に神田の岩波ホールが閉館した。客層が高齢化していた中、コロナ禍のため経営困難に至ったのが原因である。
見納めをしたかったので、先月の東大病院通院の帰途に元気を出してタクシーで駆けつけた。
ゆっくりと劇場の内外を眺めた後に紅い古椅子に腰掛け、W.ヘルツオーク監督の『歩いて見た世界』を観た。老人には難解な部分もあったが岩波ホール選抜らしい、深く心に響く作品であった。

 70年代半ばに映画館として開館して以来、ここでしか上映されなかった作品を見るために幾度通ったであろう。友とあるいは一人で・・・・・
遠くは『旅芸人の記録』『ルートリヒ 神々の黄昏』『家族の肖像』タルコフスキーの『鏡』。近年は『ハンナ・アーレント』等々。映画とともに、共に観た亡き人の思ひ出も甦り、ホールに別れを告げた。

 同ホールの開館以来ミニシアターは随分と増え、渋谷にも次々と開館された。わたくしの好みの作品はそんな映画館に多かった。だからミニシアターには良く通ったものである。約半世紀以上も(笑)

 むかし、蜷川幸雄さんが渋谷の旧ユーロスペースに並んでチケットを買う姿を見たことがある。そして日比谷シャンテの入場扉の前にあった小さな喫煙コーナーで、井上ひさしさんと同席喫煙をしたあの時。黙礼して小椅子での1本。本当に嬉しくって忘れ得ぬ感動のひとときだった!!
たぶん17~18年ほども前でしょう。わたくしにとっては良き時代であった。とっても・・・・・

 長く生きてきた間に文化も変容してきた。気付かぬうちに自身も変容しつつ生きてきた部分も大きい、とも思う。科学的進歩・変容は目まぐるしく、今や老人と子供との文化圏の相違は孫を持たぬわたくしには想像もつかない部分がある。せいぜい日々の新聞記事を頑張って読み込んで推察する程度である。ため息と共に(笑)

 数年前、亡くなった岩波ホールの総支配人であった高野悦子さんが大連神明高等女学校の先輩であったことを知った。終戦直前の5月に帰国しておられ、高校卒業は日本でされたらしい。ホールの経営方針をはじめ、その文化活動をかねて尊敬していたのでそれを知った時には嬉しかった。

 2学年上の姉と同学年らしいけれど、5クラスあった。もちろん、今はすべてにおいて朧である姉には問うすべもない。わたくしが女学校に入学したのは1944年。戦争が激しくなり、ちゃんとしたお昼休みの時間があったのは確か1年生の間のみだった。わたくしはあの頃お昼休みにはいつも図書室に駆け込んでいた。そこは入学後の独り探訪で発見した、最高に心地よい居場所であった。

 広い図書室の利用者はいつもほんの数人だったと思う。静寂に包まれ、毎日膨大なギリシャ神話に没頭するのが常だった。部屋のの窓辺には、くすんだベージュのタッセルで止められた深紅色の厚いビロードのカーテンが落ち着いたラインを描いて降りていた。座る場所は決めていたが、ある日、そのカーテンの間から校庭の内庭に紫陽花が咲き乱れているのを見た。窓辺に立ち、しばらく心奪われて見入った。たぶんあれ以来でしょうと思う、紫陽花が大好きになったのは・・・・・・

 高野悦子さん。貴女もあの深紅色のカーテンに包まれた空間にお通いになったでしょうか?

2022/7月 猛暑 猛事件 猛鬱の夏に


 夏によわいわたくし、突然の猛暑をいかにやり過ごすか!心身ともに心掛け苦労していた。そこに来て元総理殺害の大事件。厳しく恐ろしい時代を生きていることを実感すると共に、未来の厳しさも改めて思いやられ、戦慄を禁じ得ない。

 こんな中全くまったく些事に過ぎないのだが、実は先月病院でのCT検査の結果、わたくしの口腔部がんが消えたと担当医から知らされていたのである。Drは感情を表に出さない方だが喜んで下さっているのがよく分かった。しかしキートルーダでの治療はまだ続けられるようだ。そして更に精密な全身検査も翌週受けた。

 癌が消えた!もちろん先生には深くお礼を申し上げた。でもなぜかしら?わたくし自身にあまり喜びが湧かないのである。朗報には違いないので、息子と弟に先ず電話で知らせた。二人ともとても喜んでくれた、やっぱり、、、。

 その後甥、親しい友へと少数の方々に朗報(?)を順次伝えさせていただいた。声を上げて喜んで下さったり、涙してくださる歳の離れた友もいた。その中でわたくしは自らに言い聞かせたものだ。わたくしが生きていることをこんなにも喜んでくださる友が居る。恵まれた幸せ者である。強くなろう!強く生きねば!

 Drにも申し上げたが、先ず認知症になっている大恩のある姉のため、まだ役に立つことができる。コロナのために逢うことが今は許されず、弟に任せる状態になっているが、その弟の力には成れる。まだわたくしの声も分かって貰えるから、自由に逢える日が来れば姉の施設に逢いに行こう!以前のように毎月訪問することはとても無理だけれど、姉弟との再会が出来るように体力・気力を持ちこたえよう!

 つまり頑張らねば!頑張ろう!!と言うことなのである。

 前にも書きましたがわたくしは長期戦によわい。今回の大病で「死」を短い先に予知させられた2年ほど前のあの時期、4ヶ月間ほど夢中に頑張ってしまっていたのだ。その後続いた闘病生活の中でわたくしは、自身の老化を否応なく知らされ、自覚させられていた。生来どこかネジが弛んでいたわたくしが、急激な衰えに見舞われたこの2年であった。「体力の衰えにより出来ないことがどんどんと増えてゆく老後生活。すぐに疲れ、調子が狂う体」そのパターンが怖かった。怖いのであった。衰退する老後生活の傾斜が怖いのであろう。

 多くの人々が厳しい中で生きていると推測されるこの時期に、暗いことを書いてしまいました。ごめんなさい、皆さま。

 でもこのコーナーのお陰で世代広い友との交流をわたくしは保ち続けることが出来ました。読んで下さる皆さま、ありがとうございます。近年特に毎月の寄稿が、わたくしにとってかけがえのない大きな原動力となっている事を実感させていただいてます。わたくしは今も映画や読書を楽しむことが出来るし、世界への窓口として新聞のみは習慣として毎日読んでおります。

 朝刊は(もはや朝とは言えぬ時間ですが)目覚しとしてベッド上で2〜3時間。そして以前は気ままに楽しんでいた就寝時の読書。これは発病以来導眠剤の効果が妨げられる恐れが多くなりほぼ止めている。代わりにその日を振り返るように文化面の多い夕刊を読むのが闘病以来の習慣となっている。

 テレビニュース、実はコロナ禍以来直視することができない。そんな情けない弱さを持っているのがわたくしの実態なんです。だから父の影響を受けた昔からのA紙のみ、決して隈なく読み込むわけではないけど、わたくしのアタマで理解し、興味を持ち得る範囲内の世界を見つめている。1紙依存による批判や偏りの予防も忘れてはならない、と心しつつ読んでいるつもり、、、、、

 猛暑続きそうです。老婆も心して生き抜きましょう!皆さまも心身ともに大切になさり上手くやり過ごしてくださるように!!!力少ないですが声援を送っています。心から。

2022/6月 心の在りかは?


 もう4半世紀ほど経つかしら。
心・魂って何処に在るの? 胸に? あるいは頭(脳)に?
と思い始めたのを覚えている。

 元来情動的だったわたくしがパソコンなどの使用を始める少し前、60歳代も半ばに入っていた頃だったかしら?
新聞や世間の動きから得る知識、情報でそれまでの観念が大きく揺さぶられたのを憶えている。

 思えば「精神力の維持」を強く求められた戦時下に育ち、敗戦を迎え価値観が激変した13才のわたくしの夏。
思春期を迎えていたわたくしの心は、激動・激震した。

 それは女学校2年生の晩夏だった。しばらく休講された後に再開された、K先生による歴史の授業。わたくしが珍しく楽しみにしていて、成績も珍しく優秀であった授業だ。敬愛していた先生からは「日本が侵略戦争を起こし、敗戦に至った」との、長く厳しく熱のある講義を受けた。それはわたくしの中で忘れ得ぬ経験となっている。

 結核を病み、戦争に駆り出されなかったと聞いていた30代前半のK先生。彼は1年前の授業で「江戸川乱歩はエドガー・アラン・ポーからペンネームを取ったのだ」などと授業内での雑談でわたくしを楽しませ、喜ばせて下さった。
ファンであったその師の言葉に、わたくしは激動した。納得はできず、懐疑と反抗の思いが渦巻いたのをはっきりと記憶している。

 長い講義ののち、K先生は言われた。「質問のある人は?」
わたくしの中では、抗議、質問が渦巻いていた。一瞬、周辺を見回した。兼ねてからの優等生も確かに数人いるが、みんな黙している。
意外でしょうがわたくしの通った(大連神明女学校)は有名校でもあった。先進的で優秀な人材を世に送る伝統を持ち、聡明な生徒も多かったのであった。

 わたくしの心は不信と疑問で激動していた。けれども周辺はみな沈黙している。耐え得ずわたくしは挙手した。そして質問した。
『先生は去年おっしゃいました。日清戦争につき、隣の火事を放っておけるか?隣国を救うための戦争であったのだと!あれはどうなんですか?どちらが正しいのですか?』

 敬愛していたK先生は絶句なさり、しばらく黙し、答えぬまま立ち去ることで授業は終わった。
忘れ得ぬ授業。その日からあまり学校へは行かなくなった。そして秋には学校が閉鎖された。

 2年生の仮終了で翌々年の春に日本へ引き揚げた後、2年生として再登校、その後ちょうど男女共学制度の高校スタート時と重なる経験をするに至ったのだ。

 心の底にあった少女時代の経験。数十年を経て振り返ると、あの日のK先生の熱のこもった講義は、単に時局を俯瞰的に見るものではなかったと思っている。まだ若い師の、自身の目覚めを分ち合いたく知らしめたいという思いが強かったのであろうと推測もできる。
師の過去の講義からしても……。

 後の噂に、その後の大連で共産党員として行動したK先生。引き揚げ船の甲板で群衆の批判を受け、半死半生のリンチを受けたと聞いたものだった。

 思えばあの頃はもちろん、4半世紀ほど前までのわたくし。心は当然胸に、心臓にあると思い込んでいたと思う。思い返すと古き良き時代でもあった……。

 実は人の心をリードし司るものは頭(脳)に在るらしい。わたくしのように化学的、物理的思考に弱い人間でも長い手探りの刻の中、時代に伴う諸説の影響洗礼を受けて、大いなる迷い、疑問、愚考を重ねてきた。そして現在は何処かでほぼ[心は脳の作用によるもの、脳にあるのだ]と認めているのである。ややさびしいけれど[つまり魂は脳に宿る]のでしょう……。

 そしてこの思考の行方を思うと、未来へと急激に変化、展望し続ける世界の中、人生はより寂しく厳しくなりそうな不安を憶えてしまう。けれど幸か不幸か孫を持たぬわたくしは、老い衰え我が事で手一杯な現状下、多少救われているようにも思っている。正直なところ。

 「もしわたくしに似た孫がいたら?」そんな心配をしなくて済む今の救い!心淋しい梅雨入りのたそがれ時、胸に手を当てて少しだけほっと安らぐ。

2022/5月 オフネノウエノオトノサマヨリ


 もう20年数年ほど前かしら?姉と弟宅を訪れたあの日は・・・・
クリニックの2階を住居にしていた弟が、海辺の一軒家を自身や家族の居場所として購入し、手を入れた後のお披露目の集いだった。
東舞鶴市、そこはわたくし達姉弟が初めて日本の地を踏んだ地である。海辺に近いその家、当時は2階の窓から海の展望がほしいままであった。

 1947年極寒の2月後半、大連からの引き上げ貨物船(永徳丸)が港に入港する折、緑あふれる入り江に点在する小さな家々の白い障子に目を奪われた。(箱庭のような美しさ)
それがわたくしの日本の第一印象だった。忘れ得ぬ記憶・・・・
あれから30年を経て奇しくも弟はその地で精神科医院を開業していたのである。
 
 その夜姉と2人になった折も会話は弾んだ。自然に懐旧的になり幼時や亡き父の話題が増えたものだった。その内に姉が言った。自身が小学校1年生の時に父から届いた絵はがきのこと、はじめて聞く話だった。

 たぶん小1年生の頃、姉は不思議な絵はがきを受け取った。(オフネノウエノオトノサマヨリ)とあった。船の上のお殿様??。それは短い文中末尾に、キヨチャンオナカセナイデクダサイとあり、船上の父からの手紙であることが分かったと言う。こだわらずに姉は淡々と話した。けれどそれは父の大きな欠点であったわたくしへの偏愛をこの上なく象徴するできごとであった。たぶん父が上海とかへ船で出張したときのことであろう。

 15〜16才の頃、わたくしが激しい反抗、動乱の期を迎えるまで、父のわたくしへの偏愛は続いていた。わたくし自身は多分2才位からそれを意識していたと思う。そして幼児時代からいつも我が家に遊びに来ていた2人の従兄弟達、彼らは姉及びわたくしと同い年だったが、上に兄達がいたせいか段違いの機知に富み、遊びほかすべて我が姉弟のリーダーであった。従兄弟2人の訪問は最大の楽しみであったけれど、彼らの仕向けで鬼ごっこ・隠れんぼ遊びの折、わたくしはいつも鬼役を続けさせれるのであった。

 叔父が上海に転勤するまでそれは続けられた。小2生になるくらいまでわたくしは鬼役ばかり、遊びのおしまいにはいつも座り込んで泣いていた。その周りを従兄弟以下5人は「とっとこ、とっとこ、マラソンでー」と囃しながら巡り、1周ごとわたくしの前に据えた小鐘をチンと叩き、いじめを盛り上げたものだった。でもわたくしも、やむを得ないと思っていた。姉弟の想いが分かるから・・・・

 末っ子のTは別格なのであろう。本人にその意識は無かったらしい。けれども姉と長弟の淋しさ悲しさは子供心に深く察していた。そして父のわたくしへの偏愛により母のわたくしへの愛が薄められていることも気づいていた。でもそれは仕方のないこととして受け止めていたように思っている。

 父は子供達全員をじゅうぶん愛し、機嫌の良い日は変わりばんこに大きな膝の中に抱え入れ揺さぶりながら「おっ話しましょう」と東西の話を物語ってくれたものだった。やはりわたくしが一番たくさん聞いたのでしょうと思うけれど・・・・・

 「オフネノウエノオトノサマ」の話、姉は淡々と懐かしげに話してくれたものだった。あの時わたくしは、姉も長弟も心広い人であったことに改めて気づいたのである。立場が変わりわたくしに起きた事態であったなら?わたくしはきっととても嫌な子供嫌な人間になったのではないか???そう思われる。

 母にはわたくしの例の激しい季節、15〜16才の頃「生んで貰わなきゃ良かった」と言葉を投げつけたこともある。母は絶句し硬直した。それをはっきりと覚えている。しかし結婚後のわたくし、特にわたくし33歳、母61歳で父を亡くして後の母とは心通う交流を持ちえたと思っている。もちろんそう希う思いの強さに支えられてなのだけれど、、、、

 近頃、そう、思い掛けず命を取り留めているわたくしの想いはいつも姉への想い、心配、悲しみへと流れてしまう。[心身ともに力弱り、本人が最も怖れ拒否していた認知症を患い、コロナ下でそれが急激に進行してしまっている姉を末弟と共に見守ること。それが命を取り留めたわたくしの生きる大きな意義、役目である]そう自覚し日々自身を鼓舞しているのだけれど、、、、、
 
 実は連休直前日、施設の自室でまた腕の怪我をした姉は救急車で運ばれ、以来入院している。付き添った弟共々、もう手術等は受けず出来れば入居施設に戻り、慣れたスタッフのお世話を受けたい。けれども姉は再び施設に戻れるであろうか?と祈る思いでこの連休を過ごしてきたのであった。

 そしてこの文を書いている本日午後、検査で入院中の弟に代わり、わたくしが姉の担当医から電話連絡を受ける予定になっていた。午後から緊張して待機していた。でも連絡はなく、諦めと良くない状況のみ心に浮かび、わたくしは夕食を摂る気力も失いかけていた。

 ところが夜に入ろうとする先刻、担当医からのお電話をいただいた。懇切な状況説明を受けると共に、姉の入居施設のケア担当者と諸事検討をして下さった上で、退院日を決める目処が立ったとの知らせを下さった。深く礼をのべ電話を終えると、だれ憚らぬ嬉し泣きが溢れてしまった。

 オソラノウエノチチヨハハヨ、オネエサンヲマモツテクダサッテホントウニアリガトウゴザイマス。

2022/4月 「旅への誘い」を聴きつつ


 独居老人であるわたくし、わがままに自由に過ごしているけれど人恋しい日々をも過ごしている。だから近ごろ、20年ほど前に買い求めた名歌集のCD「Favorite Songs」をなぐさめによく掛け流す。
 その中で殊に心捕らわれ聞き入ってしまう曲がある。
「ボードレールの悪の華による、ヂュパルク作曲、旅への誘い」だ。歌手は2004年に亡くなっているフランス人、ジェラール・スゼーとのこと。

 少女時代、引き揚げ者の多かった広島の集合住宅に暮らしていた6~7年間。気の合う者3名で集っては始終ハモっていた。アルト1名、ソプラノ2名。わたくしはソプラノ。アルトのHさんは女子高のコーラス部長でずいぶんリードしてくれたものだ。

 そのころよく歌った「ソルベーグの歌・歌の翼に・庭の千草」等などが入っているこのCDはわたくしにとっての名盤、愛盤だ。そしてこのCDで初めて出会った「旅への誘い」。いくど聴き返したことだろう!歌手も素晴らしく、いくど涙したことだろう!!

 生意気盛り、小難しい少女であったわたくしは、思い返すと恥ずかしいが、ボードレールの詩集「悪の華」を好んでいた。今、その1編が美への痛切な希求、苦しいまでの憧れを保つ美しいしらべで独り住まいのわたくしの胸にひた寄せてくる。その一節を記させていただく。

「旅への誘い」
わが娘よ、わが妹よ、
思ってごらん、甘美なことにも
遠くに行って、ともに生きることを!
自由に愛し、
愛しあって、死に行こう、
君に似た国で!
曇った空の上
潤んだ太陽は、
私の精神にとって、
涙を越えて輝く
君の裏切り者の瞳と同じ、
実に不思議な魅力を持つ。

そこでは、全てが秩序と美、
奢侈と、静けさと欲望。ーーー

 スラブ系でもないその曲に聴き入りつつ、ロシア、ウクライナへとなぜか思いを馳せる。ロシア人にわたくしは幼時から親しみと興味を持っていた。わたくしにとって、なにしろ故郷は大連なのである。やはり、、、、、

 帝政時代末期に不凍港としてロシアが築いた都市、大連。広場を中心に展開する市街はパリをモデルにしたと聞いている。してはいけないお国自慢だけれど、美しい街だったと今も思う。思っている。
 日本が侵略し植民地化していた中、少数だけれどロシア人も住んでいたし、わたくしは大きな犬の居るロシア料理店に家族で行くのが大好きだった。

 1945年8月15日の日本敗戦と同時に、当然中国の支配がはじまった。しかし蒋介石軍と共産党軍との相剋が激しい中、たしか10日も経たない間にどんどんソ連軍が進駐してきたと覚えている。川を隔てた住宅地にある大連第3中学校が接収され、彼らの駐屯地となったのである。

 ある日、家の前の電車通りをロシアの軍隊が行進してきた。ドイツから廻ってきたとの噂だったが、汚れた軍服の兵士達による、意気揚々とは言えぬ大集団だった。ついこの前までわたくしは日本軍の行進を見かけていたのであった。たしか海沿いの住宅地である(老虎灘)の奥に駐屯地が在ったので。

 目前を行く彼らは歌っていた。合唱しつつ行進していた。そしてその歌声のなんと美しかったこと!
なんと大いなる哀愁に満ちていたことだろう!!!
歌っていたのは「カチューシャの歌」。唇に指を当て、見事な指笛でリードをとる兵士もいた。わたくしはこころ奪われ立ちすくみ、汚れた集団の彼らを唖然と見送った。

 あのときは多くの日本人が通りに出ていたが、同様に呆然と見つめていたのを良く覚えている。
こんなことは覚えのよいわたくし、後に日本へ引き揚げてからあの曲が軍歌「カチューシャの歌」であったことを知った。戦地に行った恋人を想う乙女カチューシャの応援を思い、兵士達を鼓舞する歌だったのだ。
 
 あの大きな哀愁をたたえた軍歌の合唱! 汚れ疲れた合唱団が歌った行進曲!!
わたくしは忘れ得ぬし、あのとき立ちつくして迎えた人々もあの合唱の美しさにあっけに取られ、心奪われていたのだ。

 わたくしはそれまで、多くの日本の兵隊さん達が軍歌を合唱しつつ行進するのを見てきていた。通りから、わが家の2階の窓辺から。
がなっている様にしか聞こえなかった、わたくしも知っていた日本の軍歌の数々。それまでそんな軍歌しか聞いていなかったのだ・・・・

 辛いことが多い時代だ。個人的にも正直辛い。そんな中で思い出されるあの行進曲。今もわたくしはロシア人を、その芸術を、嫌い否定する事が出来ない。敬愛を薄めることも出来ない。

 祈るほかない想いで、祈る対象を持たぬわたくしは「旅への誘い」に聴き入っている。

<後記>
 大連のわたくしの家は銃を持つロシア兵士の侵入を2度受けた。その都度地下に姉と身を潜めさせられた。被害は彼らの大好きな腕時計などだけで済んだと思う。当時は近隣の家々に空き缶をつるした綱を巡らせ、響き立てる対策を取っていた。それの効果も大きかったのではないか?
 そしてソ連軍の駐屯所や、日本人家屋を接収して士官や家族が住む住宅地が近かったことも、暴挙を大きく抑えたと思われる。幸運であった。
相当な加害、略奪、暴挙がロシア兵士により行われたのも大きな事実だと思う。

2022/3月 春ちかくされど心沈む日々に


 先日6日は夫の12回目の命日であった。3月は3日の母の命日にはじまり、父・長弟と命日が連なっている。だからこの十数年何とはなし、飼い慣らせ得ぬ悔いや心わびしさを伴う季節を迎えていた。今年は更に独裁者プーチンが起こした戦争により、世界に予測のたたぬ暗闇が広がっている。それも更に心を沈ませる。

 そんな中、老い衰え行く心身の落ち込み対策としても週1、映画鑑賞に外出する習慣はほぼ保ちつづけた。新聞の熟読、テレビ鑑賞にも心を向け日々をやり過ごした。けれど情けないことに実はわたくし、コロナ禍が始まって以来テレビニュースはほぼ正視し得ぬ状況に陥っている。怖さによって、生きる力、気力を奪われてしまいそうになるからだ。そんな心許ない日常がわたくしの実態なのである。

 そんな中つい先日のこと。恒例となっている東大での検診および治験薬キートルーダの受滴をほぼ1日掛かりで受けてきた。その折、心許している担当医からわたくしの癌はとても抑えられて居るとの言葉を頂いた。

 あと、長くて1年を覚悟した1年半前、わたくしはできる限りの身辺整理をした。まず老人施設に残す認知症すすむ姉への対策が必要であった。施設長である支配人の好意あるご配慮を頂き、兵庫まで出向き姉との対面を果たし、弟とともに事務的対応処理をも行ったものだった。

 施設を発つ日のこと、バスの待つホール前の玄関で、まだまだ軽度で会話も交わせていた認知症の姉と別れた。姉にわたくしの実情は伏せていたし再び逢うことはないと思いつつ「じゃぁ又ね」と抱き合う別れは辛かった。姉の目には涙が、たぶんわたくしも。

 そのとき、傍らに居られた支配人T氏がわたくしを大きく抱擁して「また、お逢いしましょう」と言葉かけをして下さったのだった。思いがけない行動に驚くとともに、その深い励ましに感謝と元気をいただいたのは今も心ふかくに残っている。

 あの時のT氏の言葉を実現させたい!!

 あの時期、体調は確実に落ちていった。けれど不思議と気力は維持し得ていたように思う。サガンの心許す少数の若い友たちのお陰で、思い入れも伴う愛蔵物品の整理もかなり果たすことが出来、終活を進めることが出来たと思っている。

 体力・気力が激減して行く中での行動には、むろんずさんな取りこぼしが多かった。後に思い知る不適不満は多々あり、あの終活整理、点数にすると75点くらいかしら?(笑)、、、、

 それについては既に書き記しているが諸友への感謝も忘れてはいない。決して!
けれどその後長期戦になってからのわたくしの、折に触れての無気力はどうしたものかしら?
 判っている。判ります。結局わたくしは単に長期戦に弱いのである。根性が足りない人なのだ。

 手術前にくらべ自身の体力の衰え、心身の老衰を自覚させられるこの2年ほどの日々であった。心もとなさは老いゆく身が覚える当然の経過・過程であるとも考えている。心得ているつもりなのに、、、、、

 そんなわたくしの、現在最大の課題はやはり姉の見守りであろう。姉の認知症はコロナ禍の下、急激に進行が進んでしまっている。内部感染もあり施設側の現状もきびしく大変な中、姉のようなタイプの患者が如何に手間をかけ、スタッフの方々の見守りに負担を加えていることか!!??それはわたくしにも確実に想像出来るように思う。

 長期にわたる医療・介護関係者の現場でのご苦労。姉を思うとき、わたくしは推察と感謝を捧げるほか術もない思いでいる。姉の入居施設は、現在も家族に毎月写真入りで姉の近状を報告して下さるのだ。嬉しさとともに急速に老け呆けた姿に思わず涙してしまう毎月の通信。

 しかし、その文面には姉がいかに日々を見守られているかを窺わせる真心が表れているとわたくしは思っている。案ずるのみで何一つ姉の力になり得ぬわたくしだ。負担多く、厳しい介護現場の方々に心からの感謝とともに安全健康を祈っている。祈るほか術もない・・・・・

 現在身近に姉を見守り支えているのは弟だ。その弟の力ともなり、茫漠と読み取れ得ぬ姉のこころに少しでもちかく寄り添いたい!寄り添い得たら・・・・・

 わたくしの、このしぶとくも再生している現在の(生命力)。これはやはり、姉弟とともに生きて行くべき道筋を指示して居るのであろう。思い返すと、諸事あったが幼時からの変わり者で、特にわがままな生き方を許してくれて来た家族への恩返しを促されているのであろう。

 わたくしの生き方は夫はむろん息子にも大きく響いたと自覚している。変える術もないわが家族の歴史。その手入れ、修正。多忙な中わたくしの日常を見守ってくれる息子に対し、これをちかごろ少しづつ行っている様にも思える。

2022/2月 旧友からの灯火


 たぶん大方の人々と同じように、真冬コロナ下の鬱々たる日々をやり過ごしていた先日、同世代のたった二人の大切な男友達の一人、O氏から待っていた本が届いた。近く自著が完成するので、、、と年賀状をいただき楽しみにしていたのだ。

 早速開いて驚いた。分厚いその本には7編の中編小説と彼の履歴書が収まっている。

 小説、先ずそれにわたくしは驚いた。多くの老人が人生の纏めとして、これまで記してきた文章、及び振り返りの記禄を発表している。例えば弟も、一昨年医師会等で発表してきた文章に加筆をし、自費出版を果たしていた。その類いをわたくしは予想していたのだ。

 彼はわたくしの大連静浦小学校の同級生で、幼時から優れて秀麗な心身を持っていた。ずいぶん前に当欄で書いた覚えがある。わたくしにとっての始めての外部との摩擦事件。それは1年生の3学期、20分の休み時間のことだった。後で塗り絵をするつもりで好みのページを半紙に鉛筆で絵本から写し書きをしていた。のんびりと・・・・

 そのとき突然、女生徒Oさんから難詰された。曰く「半紙をむだ遣いする非国民だ」と皆の前で厳しい口調で責め立てられたのである。その後、4年生の12月に米開戦となったが、非国民という言葉は1年生のわたくしも聞き及んでいた。(国を挙げての戦意高揚)旧満州国大連は本国にくらべると緩やかな進みであったようだが・・・・

 弁解もならずわたくしは立ちすくみ、好奇心に駆られた級友に囲まれたが、彼女の批判は執拗に真面目に続いた。厳しい面持ちで止まらぬその追及を前に、わたくしはただうなだれていた。涙もにじみひたすらに心細く、彼女がただ恐ろしかった。

 その時だった。O君が前に出て言ってくれたのである「その半紙、後でお習字の練習に使うんでしょう」わたくしは喜んで頷いた。女生徒Oさんはやっとわたくしを開放してくれ、長い恐怖からわたくしは救われた。たぶん生まれて初めて受けた他人からの攻撃であり、わたくしの中で忘れ得ぬ大事件である。

 何と今から5年ほど前のこと、姉との会話でその事件の話が出た。女生徒Oさんの姉はわたくしの姉と同級生であったのだ。

 姉と交わした1年生の折の事件回顧の中でわたくしは不意に、気づいたのであった。あの時わたくしが彼女に向かって「ご免なさい。悪かったもうしません」等と彼女に謝れば、きっとすぐに開放されたのであろうと・・・・・

 あの時わたくしの中で、彼女に対して謝るという発想は微塵も沸かなかった。そして、生涯独身・独居で自己信条厳しくを貫くOさんの生き方は、その後一貫していたのをわたくしは見ている。

 話題が逸れたけれど、さて彼の著書である。終戦時、彼のお父様は大連の大きな科学機関の所長であった。日本は旧満州開発に国威・国運を賭けていたので大連の都市機構、諸機関は世界的に高水準な文明を保っていた。(勿論、その国威拡張を是認している訳ではありません)

 業務後継のため、わたくし達一般市民の1947年の引き揚げよりも、O氏一家は所長として2年の残留処置を受けていた。従って彼は(新設された日僑学校に学び)1949年に一家して引き揚げている。

 その2年間の中国側の対応は、優秀な講師陣を日僑学校に配し、誠実かつ良質なものだったらしい。後に[アカシアの大連]で芥川賞作家となる清岡卓行氏も講師陣に在り、英語と数学の授業を受けたとのこと。旧大連人のわたくしとしては泉の水を手のひらに受けるかの思いを受ける。 

 そのO氏から届いた7編もの中編小説を夢中になって、わたくしは3〜4日で読了した。大連引き揚げの後京大に進み、高度成長期の旗手でもあった彼の人生。長年彼との交際は年に一度、同窓会のみだった。けれど会うと話しも弾み、気の合う貴重な異性の友であった。わたくしのように本質的に怠惰な者には尊敬・感嘆の対象であったが、世界を別にしている存在でもあった。その彼の小説は個人的にも興味深く、ページを止め得ない。それにしてもいつ頃から小説執筆に手を染め出したのかしら?

 化学者であるビジネスマンとしての彼は第1線で活動して居られた。おそらくは公私ともに多忙であった仕事の引退後に、小説に取り組まれたのであろう。(現役中は、ご次男の自閉症を機に私的活動も数十年間続けておられた)発表にトライもされたのでしょうが、小説としての完成度に遠いことは残念ながらわたくしにも推察出来るように思う。

 でも心情豊か、まっすぐな化学者としての冷徹な目も持つ人の記録文学として優れた文章である。状況調査、主材対象を追求する眼には愛が満ちている。わたくしは憑かれたように引き込まれて読み込んだ。おもしろかった。感慨深かった。幼時から敬愛する男友達の快挙!
おかげでその間、日々の鬱々からどれほど開放されたことでしょう!!ほんとうに有り難う!!!

 御夫人の入信を機に、学び探求の数十年を経てのエホバの証人信者である彼。もがきや苦しみの多いわたくしに対して、信仰へと手を差し伸べて下さったことも2度ほどあった。長文の誠意あふれる手紙とともに!深く涙したお手紙は今も大切に保管している。

 そのお気持ちには応え得ぬわたくしだけれど、良き友、優れた友への敬愛は深い。年のせいで忘却度も進んでいるわたくしだ。いただいた著書は、彼らご夫婦にとっての聖書のように、これからも灯火として手元近くに置いておこう。

2022/1月 年開けて真白き展望に希む


 新年早々真っ白に輝くベランダからの展望。寒風の中ストールを巻き、しばらく立ちすくみつつ見渡し見つめた。世はこともなげに美しく、小さなわたくしの世界も護られ浄められているかのよう。

 あまりにも厳しい世界の摂理の中、新春の東京の一日だけの大雪をちいさな救いを得たようにわたくしは喜んでしまった。でも直ぐに降雪に伴う交通他大都会の負担・弊害を思うと子供みたいに喜ぶことに気が咎められたりもする、、、、、あ〜ぁ。

 わたくしのお正月。独り身になっている息子が昨年同様大晦日の夕べ、ネットで購入した料亭のお節重その他美味を持参し来てくれた。迎春の食材買い物が億劫になったわたくしは、ついでに蟹やその他、三つ葉等お雑煮用の野菜も依頼していた。

 それらの食材、途中のスーパーで買って来て貰うつもりでいたが彼は、荷物が多いからとすべてを自宅ちかくの玉川高島屋で購入していた。「デパートでお野菜を!」慎ましい?わたくしは思わず抗議したものだ。三つ葉は少しも良くなかった。けれど肉厚の椎茸はみごとな良品であった。みとめざるを得ない。それに免じた(笑)

 それにしてもここに至ってなお案じられるのは彼の経済感覚だ。でも振り返るとわたくしが行動した数十回もの世界各地への旅。夫は何も言わず許容してくれていた。あれを抑えていたら、今少しわが家に蓄えもあったであろう。そんなことも改めて思い浮かび二人して亡き夫を偲び語ることも多かった。

 その夜は回顧談や、仕事柄もあり変人奇人も多い彼の周辺関係の絶妙に面白い話に、夜半深くまで興じたものだった。わが家、わたくしの周辺見聞も披露し話題は尽きない。

 ともに迎えた和やかな2022年。病人であるわたくしも元日夜は3時頃までワインを少しずつ傾けつつ息子との会話に長い刻をたのしく過ごした。あらためて天空の世界に向かい感謝をふかく捧げる。

 こころ波立ち苦しいとき、この幸せを持つ身を忘れまい。思い起こそう。

 そう、もう一つ聞いていただきたい。じつは思いかけず年末にテレビを新しくしたのである。有機テレビの画面の鮮明、繊細さ。音もより良くなっている。格段に進歩しているテレビ。それを知り実は1昨年、買い換えを予定していたところでわたくしの発病だった。その後思いかけぬ病の休止を得たが、この歳でこの能力。機械によわいわたくしに新機能を使いこなす能力は無い、と諦めきっていたのであった。

 ところが暮れのある日、毎週通い、日常の頼りともしている接骨医さんが有機テレビを購入し、4kでの大自然の素晴らしさを聞かされた。わたくしは実は自身も、、、、と思っていたけれどとても新たな器具を使いこなす自信がなくて諦めていたことを話した。

 すると先生から「なるべく同機種、同社の製品を購入すれば大丈夫!」との声援を受け、おおいに心が揺らいだ。いずれ外出しての映画鑑賞も無理な時が来るであろう。その日のためにも今現在最高品質のテレビを持ち、使い得るものならば楽しみたいものだ!

 希望と揺らぎが交換した。

 その数日後S井講師がわたくしも親しい会員の方とともに、わが家に近い駅ちかくのレストランまで足をはこび、会食の機会を作って下さった。久しぶりの歓談も弾んだその折、新テレビ購入を勧められ、衰えたアタマで果たして利用できるものか?と迷う思いを語ったのだった。S井講師は1も2も無く勧めて下さった。「大丈夫だよ」と!。いつのまにか50才になったと言う若い友からも「大丈夫」との後押し!!

 世代の異なる若い友から、ずいぶんと勇気をえた会食会だった。

 その後事情を話し、諸条件を調べてくれた息子とともに暮れの有楽町ビックカメラを訪れた。説明を聞き操作器具も試み、購入を決定した。その折、新たに驚いた事件?もあった。数十年来わが家はよくビックカメラを利用してきた。亡き夫の主義は、製品を購入する時は当時としての最良最高品を購入することだった。そしてビックカメラは安値売りをうたう店舗であるから、店頭の表示価格で購入するのが当然であると思いこんでいたのであった。

 夫が逝ったあの年の春、テレビの買い換えを予定していた。そして亡き後2年を経て9年前に液晶テレビに買い換えた折は、独りで行った。昔からのビックカメラでの購入習慣に従って当然定価購入した。数十万円の品を!

 ところが今回は違った。なんと接骨医さんに「定価より安くしてもらえますよ」との助言および断言を貰っていたのだ。息子も初耳だと云っていたけれど、購入を決めて値引きを提言したのであった。すると「ちょっとお待ち下さい」と奥に行き、直ちに数万円の値引きと数万円のポイント付加が提示されたのであった。あっさりと決まったそのひととき。

 ホント今までの数十年、なんて世間知らずだったのかしら?あっけに取られてしまった。今でも不思議な感覚だ。

 以来利用している一回り大きい新テレビ。フレームも細まり画面・音ともに格段と鮮明になった。おなじパナソニックにしたので衰えているわたくしの頭でも、リモコン操作もなんとか可能。無論使いこなしにはほど遠いが、、、、。

 さらにNetflix等もテレビのリモコンに導入されているから日常に気楽なたのしみが増え、外出する体力がなくなっても好みの映画は見続けられそうなのが何より、、、、。

 先刻、元日に録画していた2年ぶりに有客で開かれたウイーン・フィルのニューイヤーコンサートを観た。心和らぎ、高揚し、しばしとは言え贅沢な美への賛歌に潤い、やすらぎと開放の幸福に心身を放った。

 今年も芸術に支えられるであろう。アンテナを閉じぬよう気をつけよう!心掛けよう!!

 みなさま、どうぞ良き展開の年でありますように。