2024年
2023年2022年
2021年
2020年2019年2018年2017年2016年2015年
2014年
2013年2012年2011年2010年2009年2008年
2007年2006年/2005年/2004年2003年2002年2001年

 
2023/12月 祈りとしていた姉との再会を終えて

 思えば舌ガンの順調な術後を過ごしていた3年前の残暑どき、わたくしは口腔ガンの発症を知らされたのであった。再手術や抗がん剤治療を希望しなかったわたくしに、担当のA医師は「余命は半年」と告げられた。しかし当時承認されたばかりの新薬キートルーダの点滴のトライは希望させていただいた。

 その後思いもよらぬ点滴の効果で、年末にA医師から口腔ガンの治癒を知らされたのであった。以来2年数ヶ月、命を救ってくれたキートルーダの点滴治療を今春まで続行して受けていたが、それも必要がないとまで言われるようになった。

 ガンからの再起以来、「今一度姉を訪れよう!」との思いがわたくしの希望であり課題であった--。

 余命を覚悟していた3年前の11月半ばに、姉が入居していた民間施設の支配人にわたくしの実情をお伝えし、コロナ下の最も厳しい時勢だったにもかかわらず最後と思う姉との対面を果たし得ていた。

 すでに認知症の進んでいたいた姉にわたくしのガンのことは知らせず、弟も(その後同じ施設に入居した)駆けつけて来た。その弟と共にわたくしは姉のため、最後と思う出来うる限りの整理、対策処置をして帰京したものである。施設職員の方々の協力を得て!

 思えば姉の入居以来3年半ほど、ほぼ毎月わたくしは姉の元に通ったものだった。元来の姉はわたくしと異なり、自身の経済対策にしっかり対応していた。しかし入居時の姉はすでに衰えを見せ始めていたこともあり、わたくしに課された事務的処理は複雑であった。放置されがちな雑事の対応に不慣れなわたくしがチエックに励んだものだった。

 忘れ難い大事件もあった。入居した翌春のこと。元住居の売却に対する、緊急な期限付き課税通知書が来ていた。わたくしは大慌てでパソコン上で信頼の持てそうな会計事務所を2〜3選んだ。その後電話での対応で判断し、大阪市中心部の会計事務所に処置対策を依頼したのであった。

 税務署の告知書は確か期限まで1ヶ月を切っていた。見当たらぬものもあったがわたくしは会計事務所から命じられた書類をかき集め持参した。帰宅後もネットと電話による会計士との頻繁なやり取りで知り得る限りの資料を提供したものである。見込んだ通り優秀で丁寧な事務所であった。結婚前の姉が入手していた土地に課せられそうになった大金! 忘れ得ぬ大仕事であった。
 むろん手柄顔で翌月姉に報告したが、嬉しそうな笑顔で無邪気に「そーう、ありがとう」それだけだった。多分に拍子抜けしたけれどわたくしも嬉しかったなー、弱り始めた姉の役に立てて!!

 ギリシャやアイルランドへ、入居後も続けた姉と2人での気ままな個人旅行。思えば幸せな時間を共にした幸せな時期だった。今はわたくしのみに残る回想だけれど・・・・・

 すみません。老いた身の話は、つい長き懐古談に逸れてしまいました。話を戻しましょう。
 3年前のわたくしの、最後と思いつめた訪問。その後コロナ禍の体勢が厳しい最中に、姉は程なくして居住個室から介護病棟へと移動された。認知症の深まっていた姉である、それは受け入れるべき判断であった。
しかし白衣、マスク、多い男性スタッフ等急激な環境の変化。顔見知りも失い、その後姉の認知症が急激に進行したのは致し方なく、変え逆らう術もない事態であったと思う。

 年末へ向かうこの時期に、暗く長いわたくしの追想をお許しいただきたい。
実はこの3年来 “姉を訪れること” はわたくしの中で使命感を伴う “希み” となっていた。それを先日息子の同行協力を得て果たし得たのです。

 3泊4日の滞在中、対面時間は決められていたが4日間毎日訪れた。この3年間、施設や弟からの写真のみで見知っていた姉。容貌はすっかり衰えているが常にとても穏やかであった。そして身内が言うのもおかしいけれど面持ちに品位を湛えていた。嬉しい。

 そして会うつど、会っている間中、わたくしと息子を明らかに理解し認めてくれたのであった。幾度か小さな会話も成り立った。

 ありがたかった。嬉しかった。哀しかった。車椅子やベッド上の姉だが確かに姉は理解した。わたくし達親子を。微かな涙も認められた。微笑みも認め得た。すぐに忘れ去られようが、今分かっている。分かってくれたのは確かだ。そして姉に別れの悲しみが止まらぬのもありがたく思われる。

 4日間の貴重な大事な “刻” はすぐに流れた。

 訪問決定から約1ヶ月、あの緊張した日々は帰宅後の老身にも未だ疲労と悔い、寂寥を残している。しかしわたくしが自身の課題としていた “最後に纏う姉の好みの衣服” は選定指示し得たのである。弟、特に息子にそれを依頼し得たのである。ささやか、且つ大きな達成感をも覚える。

 あの六甲山脈を展望する塚口の施設職員の方々には言葉にならない感謝を覚えている。姉の手間暇かかる日常をプロとして丁寧に支えて下さっていることは姉の表情や物腰で充分に察せられたものだった。ありがとうございます。

 自身も同様な施設に入居して約半年。この先の行方はわたくし自身の今、現在の生き方にかかっているのも確かだ。未だ会話を交わすほどの友との出会いもない。当然だとも思えるけれど・・・・・

 けれどもわたくしは自らを、すでに友に恵まれている身だと確信に近く思っている。世代もさまざまなアトリエ・サガンの講師陣よ、旧知会員の方々よ。みなさまを友と思うわたくしの毎月のつぶやき、読んでいただいた方々ありがとうございました。
 
 世界中が厳しいと思われるような厳しい時代ですね。でも小さな喜びもあちら、こちら、にきっとあるでしょう・・・・・ご多忙な季節を迎えみなさまお体ご大切に、飲酒はほどほどに!!

2023/11月 ネット詐欺に出遭った件


 一昨日夜のこと、録画していた映画(パリは燃えているか)を見た。1966年、巨匠ルネ・クレマン監督の3時間近い大作だが初見だった。

 ドイツ軍占領下1944年8月のパリ。連合軍にパリを渡さぬために廃墟とするべく命令がヒトラーから下る。これに対し地下組織として潜伏活動をする各派レジスタンス・警察・一般市民による抵抗、抗戦が勃発し、パリは激しい戦闘の現場となる。
しかし、パリから夜を徹して命懸けの苦闘の末たどり着いた仏士官の伝令により、ノルマンディーに上陸した連合軍の急速、強大な救援を得てドイツはパリを明け渡す。

 興味深く長時間を楽しめた。古いパリが見られたのも良かった。何より驚いたのは超オールスターキャストだったこと。当時の欧米のスターがゾロゾロと現れる。懐かしく、嬉しく、興味深く良い時間を得てふさぎがちな心も和らぐ。

 画面に映る容貌やしぐさに覚えはあるものの老化したあたまに浮かばぬ俳優の名前。それを確かめたくなった。で、閑人のわたくしはグーグルで検索を始めたのである。
深夜になっていた。見出した名前や顔に自身の若い日々の記憶も重なる時間! とかく落ち込みがちな老人にとっては素晴らしいひとときだ!!!

 ところがそのうちパソコンが動かなくなった。そしてパソコン画面にGoogle社名で、010から始まる電話番号が出た。そこへ問い合わせの電話を入れるようにとの指示だった。始めは無視していたけれど画面はどうにも動かない。深夜にわたくしは電話をした。

 東南アジア系らしき声の男性が上手な日本語で対応に出る。仔細を話すと「アマゾン等を使用しているか?」と問われ、「はい、時々」と答える。
2〜3の応答の末、画面右上に出た欄にとあるアドレスを記入してクリックするように指示された。
(それが何のアドレスであったか? 情けないけれど今思い出せないのである。あー衰えたるかなわたくしの脳よ!!!)

 そのアドレスへの送信は、たぶん成功しなかった。彼の指示により(・)を打つべきなのにわたくしは間違えて(、)を打っていたのだと思う。4〜5日ぶりのパソコン対峙と緊張の中で、わたくしの元来の機械嫌い、怖れが極まっていたのだ。送信がどうしても成功しない(と、思う)中、電話は突然切れた。

 それからだった、わたくしが不安に襲われたのは・・・・・わたくしは何らかの詐欺にかかったのではないか?
しかし多分指示された情報はわたくしのドジと無能によって最終的に相手に渡っていないであろう!!
そう思って、常の如く睡眠薬と安定剤を飲んでその夜は寝入った。

 翌日息子が予定通り夕食を共にするため来てくれた。その件を話すと彼は直ちに行動した。まずわたくしのパソコンを検め、わたくしが利用する2つのクレジットカード会社に電話で事情を話し、使用中止と番号変更を依頼した。
そして昨夜の010から始まるアメリカのGoogleを名乗る会社に電話をいれたのである。

 出たのは昨夜の東南アジア系、流暢な日本語を話した同一人物だったようだ。「昨夜シカジカの電話を入れた者の家族だが全て対処をした。今後いっさい関わりを断ちます」と申し入れた。相手は平然と受け入れ、事は処理された。ほっとする。ありがとう息子よ!
お陰で新しいカードが発行されるまで不便だけれど、大きな不安が解消されたのである。

 ADHDの素質を持ち軽挙妄動の多かったわたくし。でも勘は良い方だから、これまでその類の被害や恐怖を覚える事態は避け得ていた。けれども今回の事件は、明らかにわたくしの老衰、老化現象だ。笑って処理を済ませてくれた息子に改めて礼を言ったものであった。

 毎月の当コーナー原稿作成タイムは、今やわたくしのこころを安らぎと落ち着きに導く最も大切な時間となっている。で、わたくしのお粗末な失敗談、お年の近い方やお身内のお役に立つかも? と思いつつ記しました。??今を生きる?老人の苦闘!をお笑いください。

追記
わたくしのパソコンの師は、早くからパソコンを駆使していらしたS井講師である。サガン教室を開いた1999年、あの頃パソコンは急激に浸透して行っていた。たしか2000年、その必要性を知りわたくしもやっと始めたのである。パソコンを!
口の悪いS井講師の指導は、機械を怖れそれに弱い老女にも甘くはなかった。「高橋さん、おんなじ事を3回聞いたら怒るよ」とは、始めた頃に言われた言葉だ。数ヶ月経た頃だったかしら、わたくしのパソコン操作についての質問に苛立った彼はぶっつけて来た。「言ったでしょ3回聞いたら怒るって」
仕方がない。わたくしはしょんぼりと口ごたえした。「余の辞書に完全はない」
彼はプッと吹き出し許してくれたのだった。懐かしく忘れえぬ思い出だ(笑)

2023/10月 ガザに盲いて


 オルダス・ハクスリーの小説「ガザに盲いて」を読んだのはもう半世紀ほど前のこと、難解なこの本を当時わたくしが理解したとは言えない。自身、そう思えなかった。だから本棚に取っておいていた。今年4月末、現在の施設へ転居する際に処分するまで。
 そんなこともあり、ガザをめぐる両国の長い確執の歴史を少しは知っている。
 その再々々燃はこの重たい時代の中、わたくしも胸痛みハラハラと見つめていた。

 今朝、と言っても恥ずかしいほど遅い時間、朝食を摂らないわたくしはまだぼんやりとした頭でいつものようにベッドで朝刊を手にした。第一面のニュースに釘付けとなり読み進むうちに心塞ぎ、絶望感を伴う恐れに取り憑かれる。

 今日は10月11日。近年テレビニュースを直視し得ぬわたくしは(卑怯を認めています)、ガザを超えイスラエル領内の野外音楽イベント会場で起きた襲撃と、成り行き、現状を知ったのである。衝撃を受けて終日落ち込んでしまう。

 夕刊を読み、事態はやはり世界を巻き込み、より複雑に状態を悪化させていることを知る。世界はこれから如何に機能して行くのかしら??!!!

 わたくしの稚拙で老化した脳にとっては、重い1日だった。けれども水曜日は長年お世話になっている接骨師を訪ねる日。とても研究熱心で探究と学びを怠らぬO師(心理学を受講するため毎週日曜日、名古屋まで4年ほど前までに通い切ったという)の手当てを夕方1時間受ける、嬉しい日なのである。

 O師による文字通りの“手当て”を受けながらこの問題を慨嘆し合う。心身が和らぎ少し楽になる。いいえずいぶん楽になる感じ。そして夜も深い今この文を記しつつ、わたくしが受けている、授かっている平穏に深い感謝を捧げている。孤独感も和らぎを得るようだ。

 めぐり逢い、長い交流を持つ全ての友びとに感謝を捧げます。

2023/9月 小さな秋よ、大きな秋よ!


 出掛けることが緊張を伴う一仕事になってもう3年ほどになる。そしてこの晩春の施設入居以来夏の猛暑もあり、外出の機会は減り外出後の疲労回復にも日時を要するようになってしまっている。
それでも自身で歩き、久しぶりの成城や二子玉川で親しい友と逢う機会を2度持つことができたのは大きな喜びだった。8月末とこの月はじめに、、、、、

 今月の目標は、すでに開かれているS藤講師他旧知サガン会員の所属する上野の(主体展)とS井講師の銀座の古巣である画廊での個展鑑賞この2点である。今、現代を生きている世代離れた旧友、旧知の表現をしっかり楽しみ受け取ってきたい!そのためにも日々体調に気を配るのが近頃のわたくしの日常となっている。

 こんな弱気な日常、寂しくないと言えばウソになる。頭の回転は悪く、記憶力の衰えもひどいと思う。アタマの鍛錬手段の一つとして、先づは新聞を丹念に読むことを日課としている。でも速度も落ち、読み返しが増えているのは確かだ。

 それでも今・現在の世界を少しでも把握していたいから、興味を持たぬスポーツ欄などはすっ飛ばしつつ朝・夕刊ともに大抵日々丹念に読み込んでいる。けれども正直なところこの数年、わたくしはテレビのニュースは正視し得ぬようになっている。自身の病と治療、そしてコロナ下の環境変化により急激に言語能力と理性の衰えた姉への対処は苦しい。

 1昨年夏姉と同じ施設に入居し、コロナによる規制の下機会あるごとに姉を訪れ、電話を繋いでくれる弟への詫びと感謝の思いも胸に常在している。姉との会話?は深い暖かさとともに哀しみも漂い残る、、、。この感覚、自覚は終生持たねばならない。姉弟の中1番心配や負担を掛けたのはわたくしに違いないから。

 精神科医であった弟の、姉の実情に寄り添うプロである故の寂しさと苦しみも推察される。その日その都度、変化もある姉の反応を弟とともに一喜一憂を繰り返しす日々。その姉と現実に向き合う弟の心を思うと済まなさと感謝、詫びの思いが苦しく悲しい。非力である。

 電話の都度わたくしは照れも衒いも打ち捨てて、「お姉さんのこと、いつも思っていますよ。大切ですよ。お姉さんは世のため、人のためにも素晴らしく生きてきたんですよ。お姉さんは喜代ちゃんの1番大事で大好きなお姉さんですよ」と恥ずかしさはかなぐりすて、精一杯心情をブツつけるのみの非力な繰り返しをしている。弟に感謝しつつ、、、、、。

 そしてわたくし自身も、近年自らの心身が急激に衰えた事態を深く自覚させられて来たものだ。せざるを得ない事態はとうにきていたから、、、、、。
そんなわたくしは近年世界の、そして周辺の状況や展望のあまりの酷さを自ら直視する気力を失わされていた。逃げてきたこの3年ほど。

 けれども近頃ときどき、たまにニュースを見る。そしてやっぱり長く正視することは出来ない。だから(今を生きている)とは言えないと思うことがしばしばある。テレビニュースを少しずつ正視して行こう。それを心がけねばと思っているのだけれど?

 でも、わたくしのこの現状。91才にして一応ひとりで出歩くことの叶うわたくし、心掛けが悪いのは自覚している。だから我が悪運の神他、何ものかに謝す思いは常に忘れていない。この思いは大切にしよう。

 (精神の力)老いや衰えを我が身に深く知る今、近頃、その真価を深く知る思いがいたします。そしてそれは自身の中からのみならず、周辺の人々の温かな見守りから得ることが多いのを近年よく自覚させられております。

 今月も老いの繰り言のごとき雑文となりました。読んでくださった方々、本当にありがとうございます。そして紛れもなく幸運な出会による長き交流を保つ方々に、改めてお礼も申し上げたいと思います。見守ってくださるその眼差しに深く感謝しつつ先づは展覧会へと出掛けましょう。

 

2023/8月 御免なさい、グチ漏らさせてください


 先月当欄で、幸いにして発見された「慢性硬膜下血腫」の緊急手術を受け無事退院に至った経過を話しました。退院後、施設のケアマネジャー、看護師ほかスタッフに見守られながら入院前とほぼ変わらぬペースで過ごし、順調な回復を得ている。そんなわたくしは、守り神である悪運の神?への感謝も決して忘れてはいない。

 発病の因果関係は分からないけれど、施設に入居していたからこそ早急な対策・処置が取れたことは間違いないし、そのことにも深く感謝している。

 けれども、けれどもなのである。今日は弱音を許して頂きたい。
入院中、そして退院後の緊張とがんばりの反動なのかしら? このところ自らを騙し、諭し、励まして生活する気力がどうにも起きないのだ。憂鬱を紛らわす術もなく、捉われ、薬頼りの日々を過ごしてしまっている。

 常に思い、また記しているように、今もわたくしを一番支えているのは、コロナ下で急激に認知症の悪化した姉とそれを見守る弟、そしてやはり一人息子への愛である。わたくしの存在が少しでも役に立っているように思っているから、、、、、愛されているとも思っているから、、、、、

 そして数は少ないが、長い歳月の交流を持つ男女数名の親友、旧友たちの不思議なほど幸運に思える存在。

 更に、いろいろあった中で育まれた数十年に渡るサガン講師の方々との深く、あたたかな信頼を持つ交流。誠実な楽しさに満ちたそれはどれほどにわたくしの日々の支えとなっていることであろう? わたくしはその自覚を決して失ったことは無い。

 そしてそれに連なるサガン会員の方々との豊かな交流!! さまざまな世代のその人々と、知り合いそめた頃の面影も懐かしく脳裏に蘇る。心通い合うことを希い信じているその人々も、わたくしの大きな拠り所となっているのである。

 そう、心細く辛い日々を過ごしてしまっていることお話ししてしまいました。
みんなが大変なこんな時節に愚痴を聞かせてしまってごめんなさい。聞いてくださってありがとうございました。少し元気が出そうです。

 猪突猛進的性格が少しわたくしと似ている年の離れたアトリエの数人の旧友を、数日後わたくしは初めて当施設の新しい居室に迎えることが決まりました。逢うことでたぶん元気をもらえるでしょう。

 暑さも厳しい季節です。みなさまも乗り切ってください。そして訪れくださったら嬉しいです。お待ちします。

2023/7月 「頭がいの中に出血発見、処置により完治」思わぬ修行を終えて、いえ修行者として


 7月3日、ふと気づき周辺を見回した。煌々たる光満ちたな大きな部屋では、グリーンの服を着た男女が動いている。異次元のような世界が展開されているその一角、カーテンによって仕切られたベッドで、わたくしは意識を取り戻したのであった。

 うっすらと記憶が蘇る。
 その日の午前、わたくしは入居している居室のお風呂場で洗濯物を掛けながら、身体の不調に襲われたのであった。ベッドサイドまでふらふらとぶつかりながら歩いた末に倒れ、連絡用電話で自ら施設の職員に保護を申請してベッドに横たわったのは確かだ。
 その後駆けつけてくれた息子と共に用賀の脳神経科医院を受診した後、ここへ運ばれたのである。

 頭はぼんやりとしているが特別に苦しいという感じは無かった。
で、今思い返すとそこで働くおそらくは医療の最先端に携わっている優秀な人々をわたくしは好奇心いっぱいで見つめていたのだった。そんな人々、現場。こんな観察の現場にわたくしは居るのだ!!!無論自身の現状認識が確かなわけではない。
 おめでたいわたくしはぼんやりと、だが興味津々と光に満ちた大きな空間の中で意識を取り戻したのだ。

 ここはどこですか? と問うと某大病院の集中治療室とのこと!

 省きますが、あの部屋では実に興味ある人々による興味ある仕事ぶりを見ることができた。わたくしへの関心が実に細やかであったりすることが直ぐ実感できた。
 好意的で真剣な方々に見守られ、担当Dr.(N医師)の診断を受け、わたくしは長く慢性的な頭がい内出血を抱え持ち、それが脳を圧迫し続けていたこと、いつ脳の機能が停止しても不思議でないほどに血溜まりが大きくなっていることを告げられた。

 当直だったN医師は「大きくなっている血溜まりをすぐに取ります」と迷いなく告げ、直ちに手術は施行された。
 術後の経過は順調で、Dr.からは術後3日目にして早速退院計画も勧められた。

 ここ病室では、事故防止のためであろう、極端に行動の自制を求められている。リハビリよりも安静が大切ということなのか、館内での一人歩きの練習なども一切認められていない。無論理由あってのことでしょうから従っているけれども、新聞購入にも行けない現状にもう1週間以上。わたくしのストレスも相当溜まっている。

 Dr.はより早急な退院を勧めてくださった。けれども施設へ帰宅した後の諸問題もあり、当方から13日の退院を申し出させていただき、その方向で確定した。
この体この精神であと5日間過ごす苦労を考えると気が重く、とても食べ物は喉を通らぬでしょうと予想したが、朝・昼の食事が思わず進むほどわたくしは回復に向かっているようだ!

 今回(慢性硬膜下血腫)による最悪の結果を直前に避け得たわたくしの悪運は、今後どれほどの道のりを辿るのかしら? 弟も精神科医であったから、幸運?を喜んでくれている。
 今回の処置でまた、寿命が伸びたのは間違いないように思われる。

 現在の高齢者向け施設の居室へ4月に引っ越して以来、ようやく落ち着きを得たと思い、我が部屋での友との会合を計画し始めたところへの今回の事態でした。コロナ下の入院生活がなかなかに苦しいのも事実だけれど、やはり全てを幸運(悪運)の神に謝し、皆様に会える日のために退院後も生活を少しでも規則的にせねばと、殊勝に心がけ励むつもりで現在は深く自戒おります。

 まだまだわからないわたくしのこの先の展開! とりあえずこの度の楽に進んでいる展開をご報告しました。
人恋しい思いの夕空に向かい、遠くを展望するひととき。友のみなさまを身近に覚え、優しい風を感じています。

 やっと整ったわが終の住まいで皆様にお会いし、お話しし合える日がまた少し伸びてしまったのは否めません。
ご無沙汰をお詫びすると共にその日を改めて期待し、前を向いて過ごすことを心がけましょう。

ご連絡、ご報告に変えて、、、、友のみなさまへ

2023/6月 ミニ画廊完成!自画自賛??


 先週末のこと、「やっと転居支度を遂行し得た!」との感慨を得た。

最終課題であった最も大切な「所有する絵画をどう配置するか?」が完成したのだ。4月末の転居以来様々な作業に毎週末通ってくれた息子のお陰である。

 嬉しい発見もあった。作品の展示位置はわたくしが決めるのだけれど、その作業過程で親子の感覚がとても近いことがしばしば自覚させられたのだった。

 心身ともにこんなにも子供の世話になるとは! 正直今まで思っていなかったのである。制限が厳しい1ルームの新居での最後の大作業であった。わたくしはたしか40数年前から、好きな作品を出来る範囲内で入手するようになった。愛着あるそれらの絵画は口腔がんによる半年先の死を覚悟した2020年の秋、もっとも親しく適切と思う人々に10点ほどは贈呈していた。しかしほぼ残していたのである。

 当時はできる限りお終いまで我が家で過ごすつもりでいた。けれども幸か不幸か、医師の勧めた療法(キートルーダ受滴)により口腔癌は数ヶ月で消滅し、体力、気力は落ちたが現在に至っているわたくしである。

 子供時代から大きな大きな恩を受け、コロナ禍を機に認知症が急激に深まっている姉と、5年ほど前に妻を失い、一昨年の夏に姉を守るように同じ施設へ入居した末弟。無自覚な我儘さでわたくしは弟からも大きく深い恩を受けて来ていた。わたくしとしては思いがけず残された命で少しでも姉と弟の役に立ちたいと思った。

 これは現在も一番の指針、生きる希みとしている。

 そしてそれは、8年前に逝った2歳下の長弟への思いでもある。わたくしと言う人間は振り返るとこの弟からずーっと妹のように見守られていた。彼は姉弟の中で1番古風な意識の持ち主だったと思う。風変わりなわたくしを、若い時からハラハラと見守ってくれていることはわたくしもずっと気付いていた。ふたり共に若かった結婚前も、最もよく話し合ったのはこの弟だった。

 13年前、10日間の闘病で急に夫を亡くした折に陥った、あの言いしれぬ孤独と絶望感。思えばわたくしにとって生まれて初めて本当に独りっきりでの生活が始まった日であった。数年に亘る長く苦しく淋しい思考の中、夫を軸としたさまざまな過去の展開に潜む「わたくしの甘えた我が儘な無神経さ」。深い悔いと共に、やっと本当にそれを自覚させられたように思う。愚かなわたくしであった。

 以来わたくしは、間に合わなかった夫(一人っ子であった)・舅・姑には心で詫び、実の姉弟とその家族には心して対応して来たつもりでいる。

 少しでも姉弟の役に立ちたい。それは思わぬ生を得たわたくしの一番の希望だ。その希望は、弟が手で支えているスマホを通して聞こえてくる、ほぼ意味不明に連発される姉の言葉。けれども妹との会話であることは自覚していると思える、姉との会話ならざる会話によって保たれている。

 「姉はわたくしに向かって話している」そう思いたいし、そう願って成り立ち得ぬ会話を繰り返し交わす日々。弟もわたくしも未だ諦めてはいない。

 「お姉さん、喜代ちゃんですよ。お姉さんが大好きですよ。お姉さんが大切ですよ。いつもお姉さんのこと思っていますよ」或いは「お姉さんはとても立派ですよ。長い間世のため人のために尽くして黒崎さんと一緒に知事さんから表彰状を貰っているんですよ」などの言葉を、意味の聞き取れぬ姉の言葉に恥ずかしげなく返す。呼びかける。

 みっともなくったって良い。姉の意識、素朴なプライド、生きて来た実感を少しでも呼び起こしたいと藁にも縋る思いなのだ。
子ども時代を過ごした大連についても話す。いずれにも大きな反応は全くない。でも妹と話している感じは確かにある。それを弟と共に小さな救いと悦びとしている。

 いけませんね老人の話すっかり逸れました、戻しましょう。そんなわたくしが、3年前には自身が予期しなかった心身の成り行きで有料老人施設への転居をきめ、息子の賛同と協力のもと決行したのであった。38平米の1ルームに所有絵画の全品展示はむろんできない。

 絵画の配置完成に向かって息子とともに考慮したこの2週間だった。息子との共通感覚に驚かされ、悦びを得たこの数週間でもあった!! 作品の展示位置に関して無論主導権はわたくしが握っていたが彼の助言も実施も的確に思えた。わたくしとしてはとても嬉しい発見だ。

 制約条件の多い壁面に適応する吊り具などを良く調べ、検討の上購入してくれたのである。予想以上の点数を配置し得たのは全く彼のお陰であった。

 先週末の夕べ深く、ほぼ完了。それも見事にである!!!?部屋が一挙に格上げされた感じ、美しくなった。落ち着いた華やぎも漂い、この1ルームが我が家になったと思える瞬間を迎えた感じ、、、、、

 成功を我がことのように喜ぶ息子と、自画自賛??の素晴らしさを共にかみしめた夜であった。

 好きな絵画に守られるこの部屋に愛着を持ち、老い行く身を捉えんとする鬱からの脱却、逃亡・韜晦・超越を心がけよう!


2023/5月 90代に入っての新生活 (苦難の)スタートご報告します


 半世紀住み慣れ親しんだマンションから現在の施設に転居してほぼ1ヶ月になった。まだまだ落ち着いていない。けれども最も大切な最後の決断として、様々な制限に縛られる“絵”の配置位置をこれから決めるところまで来た。やっとここまだ来た!! 多忙な中、通ってくれた息子によって諸事進めることができたのだ。

 同じ町内での転居、引っ越しはむろん業者に依頼したが有名なその業者にも手違いは多かった。新居へ持参するべき品が残され、捨てるべきものが持ち込まれていたりと、、、、。こちらの体力の無さによる不徹底もあるでしょうから苦情は申し入れなかったけれど、、、、、、。

 家具その他の配置等は入居した施設でインテリア係と相談して進める方法もあったが、わたくしのゴチャゴチャ蒐集品はわたくしにしかその置き場所を決められない。入居前からベッド他大きな家具の位置は決めていた。しかし趣味的な小物が多い。したがって手間と時を要した。付き合ってくれた息子が、我が子ながら沈着冷静(わたくしと正反対ですね 笑)で心大きいことに初めて気づいたように思う。甘えてしまったものだ。

 息子とは、思えば25歳で我が家から独立して以来、常時はお互い立ち入らぬ交流を保ってきていた。しかし夫の没後、殊にわたくしの舌癌手術以来何かと支えてもらっている。頑張っているのでしょうが素敵に自立している元妻にも今回助けられたりもした。幸せなわたくしである。

 それでも、予想以上に消耗したこの1ヶ月だった。目・手指・顔・等に思わぬ症状を起こした。むろん肩、腰は痛み、何よりも心が疲れ、萎えたものだった。当然ながら利用時間に制限はあるけれど、施設の食事・お風呂なども利用しつつどうやら最難関時を乗り越えたようだ。新しい過ごし方にも少しは慣れたように思う。

 わたくしとしては大変だったこの1ヶ月、新聞のみは読んでいた。この部屋ですべてが終ってはあまりにもさみしい、外へのアンテナ張りは必要だ。(実はテレビニュースは、ここ数年見る気力、勇気を失っています)ところが昨日は部屋内の整理にも無気力になり、新聞も読み続ける気力を失いベッドに横たわってしまった。

 その無気力の中ふと手にした1冊の文庫本。長年の蓄積蔵書を全て処分して、今回ほんの20冊位持ち込んだ処分逃れの本。その1冊を読み切ってしまったのだ。決して明るくもない井上荒野のその小説、その1冊はなぜかわたくしの現実に入り込んできた。

 雑用に追われ、追い込みを続け、ほぼ意識的に本を避けてきたここ数ヶ月だった。久しぶりに集中した読書! わたくしはやはり本が好きだったのだ。視力は衰えたけれどまだ本に没頭できる!! 小さなこの発見から得た元気は大きい!!!
読みたい本は無限にあるし・・・・・・

 そして今日、久しぶりのパソコンでみなさまに向かうと、これまでも今も、みなさまから応援の力を頂いて来ていたのを指先にはっきりと感じる。老いてなお無謀・無防備・猪突猛進癖のあるわたくしを何も言わず見守ってくださる皆さま。折々の優しい声掛け、本当にありがとうございました。

 S井S藤先生。頂いた電子レンジ、やっと慣れてきて使っています。ありがとうございました。

 もう少し慣れ、落ち着いたら皆さまわたくしの新居を訪れて頂けたら嬉しいです。ご参考にもなるかとも思います。

2023/4月 転居も近いのに、聴きいってしまうロシアのCD・・・


 約半世紀の間暮らしたわが家から有料老人施設への転居を、今週末に控えている。すでに心身ともに追い込まれる思いに陥っていた先月の半ばから1週間ほどの間、私は思いがけぬ事情から最期のミシンを踏んだ。

 きっかけは、我が家の購入者から「ミシンや洋裁用品、生地、その他不要ならば、全部残していって欲しい」と希望されたことだった。当然捨てて処分する事になると思っていたわたくしはとても嬉しかった。けれどミシンは2年半使用していなかったし、洋裁関係残留品はやはり取捨選択せねばならない。つまりひと仕事増えたのも事実だったのである。

 気に入りの上等な生地を使ってどうやら無事に、食堂やお風呂にも着て出かけられる部屋着風の上下1着・シルクのベッドカバー・綿サテン生地のシーツを製作した。余談だけれどこれらの生地は10年ほど前までサガンのすぐ近くにあった大きな輸入生地販売店で購入していた。すべて、、、、

 あの頃知ったものだ。わたくしが直感で選ぶ生地は気がつくとほぼ全てがブランド品だった。わたくしはそれまで抱いていたブランドに対する偏見をあの店で省みたのだった。1流ブランドの放つ魅力を思い知り、実感した。もっともわたくしが気軽に購入できたのは、サガンからほど近いので主としてセール日を利用できたからである。

 話を戻しましょう。最後のミシンを踏みつつ、わたくしはこれも取捨選択の必要があるCDを聴いていた。その中でも、、、。
2000年夏にモスクワで求めた1枚、あの旅のさまざまが思い起こされる。ロシアへの個人旅行は難しく、わたくしは東欧に強い旅行社のツアー旅を選んだ。そしてツアーの前後に各3泊、1人でペテルブルクとモスクワ滞在と言う特別な旅程を組んでもらい参加したのだった。

 バルト3國も巡ったあの旅は、忘れ得ぬよき旅の1つである。(正直、記憶は衰えを深めるのみですが・・・)最後のモスクワ残留ではガイド付きをと旅行社から指示され、それに従った。30代後半であろうロシア人ガイドのセルゲイは、毎日迎えに来てくれ案内もしてくれた。ボリショイオペラのチケットを取ってくれたり、自由時間も持たせてくれ雑談も弾んだものだった。よき案内者だった。よきロシア人だった。日本語は大阪で学んだとのこと。そして大阪が大好きだと笑って言ったっけ。

 そのモスクワ自由時間に買い求めたこのCD。当時わたくしも知っていた曲も2~3入っているいわゆる流行歌集だが、スラブの独特で大きな哀愁が茫漠と漂っているのを感じる。繰り返し聴きつつセルゲイとの別れも思い出される。

 帰国の前夜、親しくなっていた彼は日本大使館に勤めている友人を連れてホテルを訪れてくれた。話は弾み、わたくしも興味ある彼らの私生活も聞いたし、わたくしの私生活についても問われたことは率直に話した。ワインをたくさん飲みながらの長い夕食会を楽しんだのがとても懐かしい。旅の終わりのよき夜だった。

 そしてわたくしは彼らに思わぬ負担をかけてしまったのだ。カードで支払いをしようとしたら、あの1流ホテルでも当時ロシアでは私のカードは使用できなかった。手持ちの現金はもう少ない。その時彼らは本当に気持ちよく笑って支払ってくださった。わたくしは詫びと感謝を心から述べる他なかった。そして深い握手をして別れた。

 出生地はウクライナ、息子と確か同い年だった。今はもう60歳に近いであろう彼セルゲイ。引っ越しの大仕事を目前にして今また彼らが強く思い起こされた。(どんな日々を過ごしているのであろう??)

 このCDはやはり取っておこう。


2023/3月 春にして我が家を巣立つ


 春を目前に、そして日々兆しを見る今日この頃だ。
元来心がけ悪く生きてきたわたくしの昨晩秋の決心、「自家を売却して有料施設への転居」は息子の理解と協力を得て着々と進んできた。
既に我が家の買主、入居先との契約も終えている。

 思いがけぬ速さ、順調さで事は決まり4月初旬には転居の運びとなっている。心忙しい日々の中処理せねばならぬ仕事は文字通り山積!

 2023年、この厳しい時代にあってわたくしの状況は「ただ感謝して転居準備に勤しむべき状況」なのである。わたくしに残る理性は日々そう諭してくる。「どんどん整理に励みなさい。そうするべきです」と。でもそれがなかなか出来ない。遅い起床から心身の活力が少し向上し整理に向かうまでに、多大な時間を費やしているのが実情だ。それも毎日なんてとても無理!

 でも実は嬉しい煩雑もある。我が家の売却を不動産会社に依頼してすぐに現れた今回の買主さんは多分30代後半の独身女性で、お母様と同居されるとのこと。彼女の好みと古マンションの我が家のたたずまいが一致してのご購入と思われる。それは初めて内見に来られた時からの印象だった。

 不動産会社の担当者や不要品の片付け屋さん(?)と共に2〜3回会い、お互い全く率直に要望を話し合った。結果わたくしの残してゆく家具のすべて(クラシックな電話チェアー1台を除き)をそのまま使っていただけることが正式に決まったのである。

 驚いたことに、わが愛用のミシンとその他洋裁道具、材料、生地「いつか作ろう、作りたい」と思いつつ常備していた)。それらの品々も引き受けてくださるとのこと! さらに案内の際に目についたバック類もその場で気に入って受け取って下さったのだ。嬉しい、とても・・・・・・・

 しかしのちに気づいた。思い切って丸ごと捨てるつもりでいた品々を選別せねばいけない。正直、老いの身には一仕事増えた感じ!
彼女はわたくしとの共通点を持っているように思う。猪突猛進、感性で行動なさるタイプだと思われる。息子とそう話し合って笑う。でもこんな巡りあい、改めてわが悪運の守り神に感謝を捧げている。

 思えば今回自身の落ち着き先を決めた施設には、ある忘れ得ぬ印象があった。確か2019年秋、強い台風でベランダの物置が倒れたりした年の初冬の日だったと思う。
向かいの丘にアクロポリスの神殿が現れたと思った。いまもバス停に名を留める「電電アパート」群が取り払われ、マンション群に改築された1画。その1棟nに夕陽がさし、全面まばゆく色彩と煌めく輝きを発しているのであった

 空気の異常乾燥その他による幻の出現だと思われた。あんな煌めきを展望したのは50年在住の間にただ1度っきり! その前年に姉とギリシャを旅した折、アテネで滞在したホテルの窓辺から日々ほど近く展望したアクロポリスの丘、パンテオン神殿がすぐに連想された。それは幻の時間であった。わたくしは奇跡に謝し、ベランダで長時間見惚れつつ立ちすくんでいた。当欄に記した記憶がある。

 それが老人施設の、窓やベランダが連なる西向きの1棟であることを知ったのは2〜3年前のことであった。そして今回ネット上で自由度の高さ等も確認し、他1社と共に訪問見学をしたのであった。そして折よく該当する空室も生じわたくしは転居を決意した。

 あの幻のようなパンテオン神殿の輝き!!!
今回入居の決心を促す一因ともなったように思う。誰しも100点の選択などあり得ない。それは、かねて良くわかっているつもり。今は衰えた心身をこころ鎮めてアクロポリスの丘に託そう。

 ここで書き終えようとしていた矢先。S井講師クラスのYさんからお電話をいただいた。旧知、旧友とも思う数人の方々が我が家近くまで来てくださり会いましょう。とのお申し出をいただいき、嬉しさと感謝、懐かしさに涙しそうになる。

 でも引っ越しを控え心身多忙でもあり、自信が持てないので転居後の施設へのご訪問を率直にお願いした。コロナ問題が落ち着けば喫茶、食事、応接等のコーナーでゆっくりとして頂ける筈である。
アトリエ・サガンの世代を超えた心優しき友人の皆さま、どうぞこれからもよろしくお付き合いください。そしてわたくしのボケ対策にお力添えくださいませね。


2023/2月 街への誘い


 永く親しんだ渋谷の一角が大きな変容に向かっている。そう、東急本店が先月末閉店し、隣接するBunkamuraも4月いっぱいで閉設される。

 思い起こすと子育ての合間に、或いは子育ても終えた後(一人息子が高校入学時に区切りを得た記憶がある)、わたくしはずいぶん多くの刻をBunkamuraで過ごしたものだった!
渋谷は、中目黒に住んでいた20代からの身近な遊び場だった。年齢・時代を問わず一人での行動が多かったわたくしだが、銀座・日比谷・新宿その他何処よりも親しんだのは確かだ。

 今も鮮やかに残る蜷川幸雄演出、寺山修司原作の過酷な物語『身毒丸』のラストシーン。当時確か15歳デビュー時の藤原竜也が、盲となった身を名優白石加代子に手引かれ、手をたずさえてシアターコクーンの舞台を降り、舞台裏から現実の街へと放たれたドアを抜け裏通りへ逃れ去ったあの演出・・・・。

 忘れえぬ名作、名演技、ともに生き抜こうと決意した2人の姿が今も脳裏に焼き付く名シーンの一つだ。多分現在あのような演出は許されないでしょうね。

 とにかくBunkamuraは映画・舞台・ミュージカル・展覧会・食事等その気になれば最も手近に楽しめる居場所だったのだ。本店9Fには直通でゆっくり座れる喫煙室もあったし!!! わたくしにとっては長年、中高年のいたわりの空間であった。

 親しい友と1月末には本店デパートを訪れ、軽くめぐってからゆっくりと食事をした。そして昨日は頑張って一人で映画『モリコーネ 映画が愛した音楽家』2時間45分を見てきた。いつものように首の後ろに折ったマフラーを当て、腰にはバッグ、コートを膝にかけてリラックス体勢で臨む。ご時世がらわたくしの好む前方席は周辺に誰もいない。椅子もゆったりして我が家でテレビを見るより楽なほど、、、、。

 充実の3時間だった。

 わたくしが彼の音楽に特に惹かれ、名作だと感動した映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が1984年作であったことも改めて知ったのだった。

 子育ての時期テレビでよく見ていたクリント・イーストウッド主演によるマカロニ・ウエスタンの数々の名作。これもモリコーネの音楽なしには考ええぬ成功だったのだ。そしてあの『ニューシネマ・パラダイス』1988年、『海の上のピアニスト』1998年等々、、、、、

 話題がまったく変わりますが、我が家は購入して下さる方と既に契約が交わされ、入居先の民間施設もほぼ確定している。わたくしが先導して息子の大きな理解・助力のもと、今のところ万事順調にことは進んでいる。彼の支えがなくては出来ないことであるとよく理解しているし、感謝しつつ頼っている現状なのである。
 
 大老境に入っているのが否応なく認識させられる近年だ。自力でできるだけ遊びを忘れずにこれからも過ごしたいとわたくしは一人つぶやく。遊ぶのにも体力、意欲をとても要するのだ。
現実として小さな周辺・大きな周辺。世界がとても苦しい時代だ。個人的にも近年の体力激減、姉の認知症急進行など、気力を保つのに当然苦労してしまう。でもこれらはすべて当たり前、ごく普通の現象に過ぎないのである。

 決して用心深く生きてきた訳ではないわたくしだ。恵まれてきた悪運--それを亡き懐かしき人々に謝しつつ、自身をなるだけ自身で支えて、これからの老いを生きて行こうと思っている。

 それを忘れずにいられる保障はないのだけれど・・・(笑)

 知るのが遅かった(40代に入っていた)、大好きな「エゴン・シーレ」の作品が上野で大きく展覧されている。そして幾度か見ては元気エネルギーを得た魅惑のサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」も訪日中だ。いずれも出来たら再会してヒリヒリしたり、ワクワクしたりしたい!!!

 でも今のわたくしには共に体力勝負になりそうだ。自信が持てない。

 転居・新生活への負担逃避なのかしら? 多分今の体力では果たせえぬ2つの夢を夢想している。わたくしの怠け癖。より重症化しているらしい。

2023/1月 決断・決行を求められる新春にあって


 昨年末に当コーナーで、わたくしの長年の計画と覚悟、「おひとりさまで住み慣れた古マンションのメゾネットルームで最後まで過ごそう!」の信念(?)を変更するに至る事態を記した。

 幸いにもわたくしの口腔部がんは、東大病院通いによるキートルーダ効果で現在も鎮圧され消えている。けれども心身の衰退は明らかだ。3~4週間に一度、ほぼ1日がかりの受滴を自力で受けられる間は続けようと思っている。そして既に3年来担当していただいているA先生は、わたくしの私的報告(グチ混じり、いやグチに等しい)にも落ち着いて耳を貸してくださる。

 キートルーダ受滴の待ち時間に、女性心療内科士を配して話を聞いて頂いたりたりもしている。思えば近年のわたくしはA先生始め東大病院のスタッフに多くの力を頂いているのだ。だから、つい一昨日前の治療日にも先生に申し上げた。おひとりさま生活から施設の集団生活へ移住する決心と、選択に到った経緯を、、、、。

 そう、思いがけぬ速度で進んでいます。我が家の売却と施設入居の準備が!

 施設は、選んでいた所に部屋の空きが出たとの知らせを受けて見学した結果、良さそうな部屋が見つかった。無論100パーセントOKなど始めから期待してはいない。けれど7~8年前に元気だった姉とともに10数カ所を実地見聞した体験は大きい。まずネットで大体を予想することができた。これは大きな手間省きとなった。

 そしてなんと、昨年末に売りに出した我が古マンションに早速買い手が着きそうなのである。私的な好みの強い、内装に手間と費用をかけた屋内と広いベランダを気に入って頂けたようだ。さらに屋内外の雰囲気、眺望、家具その他も・・・・・

 先日2度目の内見に見えた折、わたくしは「私の転居先に持ち込める家具は少ないので、もし宜しかったら気に入った家具他をチエックしていただいてご利用頂けたらこんなに嬉しいことはありません」と30~40代のその女性に申し入れをしたものだった。喜んで頂けたようだ。ちなみにお母様と住まわれる由。

 仲介を依頼している不動産会社の方が購入の意を受け、明日、契約の最終話をしに来られる予定となった。無論息子が来てくれるが、あまりにもな急進行にわたくしは既に気疲れをしている。老いの成り行きで判断し決行した昨年末の『我が家の売却と施設への転居』問題。進行には数ヶ月は要するでしょうと思っていた。「その中ですっかり衰えているわたくしの心身も鍛え直しを受けるでしょう!」と、どこかで期待していたのに、、、、、、

 あぁわたくしの悪運の神よ! あまりにも順調らしき成り行きにたじろぐわたくしが居る。
「苦悩と混乱に明け暮れている世界の中に、わたくしも在る」事を自らに言い聞かせつつ。